堅香子 | 10

 

 

「隊長」

宣任殿、座の前の階を降り、目の前の隊長へと声を掛ける。
あの奇轍、そなたにいま何をした。
目には見えぬ、それでもそなたの小さな呻きと、最後に僅かに折った膝は何としたことだ。
「何でもございませぬ。王様、坤成殿へ」

強張った表情で申す隊長と共に、奇轍の抜けた扉を見遣る。
これで終わりではない。これが始まりだ。
あの奇轍これより何度でも、寡人の前へ立ち塞がろう。
今まであの男を黙殺してきた、その臆病な駆け引き故に。

塞がってみるが良い。寡人はこれでもこの国の王。
心を集めるべきは、この寡人だ。そなたではない。

回廊を迂達赤の守りにて進み、王妃の坤成殿へと駆けつける。
両脇を守る者どもに扉を引かれ、そこから急ぎ中へと入る。

部屋の中は明るく、変わった様子は全く見受けられぬ。
いつもの王妃の部屋のまま。
そして寡人の探し求めた姿は脇をチェ尚宮に守られて座す。
静かな横顔で卓の前、小さな手に茶碗を持っていらした。
不躾に、言葉すら掛けぬまま室内へ踏み入った寡人を、僅かに驚いたよう真っ直ぐに見遣る。

王妃。
王妃。
寡人が無言で伸ばしたこの手で、王妃の手の中の小さな茶碗が卓へと払い落とされた。

王妃。

あの時元の後宮で、どなたとも知れぬそなたの、小さく柔らかな手を固く握った。

逃げられる。

あの暗い元の後宮の回廊で。
寡人の目には回廊のその外の、後宮の庭のその上の、大きく青い空の幻のように美しい空の色が浮かんだのだ。
まるで好きな青の顔料を水に溶き、ひと筆で大きく塗ったほどに鮮やかに。
元での人質のような扱いの口惜しさに唇を噛み、その向こうの故郷の国を思い、一人何度も見上げた空の色。
そこを飛ぶ、一羽だった淋しい鳥の姿が。

この人と一緒なら広い世界へ飛び出せる。何処までも共に飛びたい。
私と共に、飛んではくれまいか。広いあの空を、共に行ってはくれまいか。
どなたとも知れぬあなたの手を握り、寡人には見えたのだ。
目に映る、淋しい一羽だった鳥の横、何処からともなく寄り添ったもう一羽の鳥の姿が確かにこの目に見えたのだ。
この方とならば何処までも行ける、心よりそう思うたのだ。

そして今、再び。

しかし此度は姿を晦ますのではなく、その手を握り歩き始めた寡人の手を掴み返し、この足を止めた。
言葉が居るのか。王妃、あなたを連れだすのに。
あなたを見つめる、この目だけでは足りぬのか。
「王妃はこの後、寡人と共に康安殿で過ごすように」
その声に目の前の王妃が、その瞳で問いかける。

王様、どうされましたか。

そうだ、あなたはいつでもその瞳で問うて下さった。
その瞳が問うて下さっていると、寡人が気付くまで。
見下しているのではない。冷たいのではない。
ただこの方も話の下手な方で、声を出すのが怖いだけだ。
そしてそうさせてしまったのは寡人の心無き言葉だったと、寡人自身が思い出し、気付くまで。

あなたしかおらぬ。寡人と共に飛ぶのはあなたしかおらぬ。
どれほどに疲れ果て、我慢できぬほどの恥辱に塗れても、それでも立ち上がり、この国を守るその理由は。
目の前でいつでも寡人を見守り、その瞳で問いかけ、ただ静かに寡人の肩へその小さく柔らかな手を乗せる。
王妃、あなたしかおらぬ。あなたがその理由だ。

この国の王として立つ。あなたに恥じぬ王となる。
あなたのために国を、民を守る。
あなたに害成すものを、寡人は決して許さぬ。
「チェ尚宮」
呼びかけにチェ尚宮がその頭を無言で下げる。

「坤成殿にどのような罠が仕掛けられているか判らぬ。完全に危険が取り除かれるまでの措置だ」
それだけ言うと掴んだままの王妃の手を引き、坤成殿を後にする。
何が潜むかわからぬ、あの蛇のような奇轍が目をつけたこの殿に、一刻たりとも王妃を置くなど我慢ならぬ。
飛び出した寡人たちの後、王妃の上衣を抱え、チェ尚宮が遅れて走ってくる。

「徳成府院君が参内した」
手を握ったまま周囲を内官、そして迂達赤に守られ、康安殿へと廊下を進む。
「さようでございましたか」
強く握りしめ過ぎておる。早足にて進み過ぎておる。
分かっても止められぬ。あなたを安全な場所へ逃がすまで。
「王妃の命を狙うと迫った」
「聞き及んでおりました」

その静かな声に足が止まる。
あなたが止まり、周囲の守りが止まる。
ご存じであったのか。ならば話は一層早い。どれ程不安な気持ちにさせた事か。
「故に」

ようやく足を止め、横に静かに立つ王妃を見つめる。
ああ。この目があなたの瞳ほど饒舌であれば良いものを。
「故に」

多くの者たちの前で握り締めたままであった柔らかく小さな手に気づき、ゆっくりと離す。
あなたの王妃としての体面がある。
人前でのこんな無体に、どれほど恥ずかしい思いをさせた事か。
ゆっくり離れる手をあなたの瞳が追う。
離さないで下さい。
瞳がおっしゃっているように聞こえるのは、寡人の思い上がりか。

「お傍に」
消え入りそうに細く優しく、あなたが告げる。
その唇がおっしゃったのか、瞳がおっしゃったのか、それすら分からぬ寡人は愚かであろうか。
ただあなたのその瞳から、この目が離れぬのだ。
その瞳を覗き込めばあなたの声がすべて聞こえる気がしてならぬ。

「いさせては、下さいませんか」
王妃。どう言ったら良いのだろうな。
「勿論だ」

あなたにどう言ったら良いのだろう。
離したくない。離れたくない。
あなたがいれば、寡人は王として立てる。
国を、民を守れる。

あなたさえいれば、何処までも飛べる。
この目すらも寡黙で口下手な寡人は、どう言ったら良いのだろうな。

 

 

 

 

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8 件のコメント

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    ここも いいシーンですよね。
    こころが通じ合っていないかと…
    とんでもない ホントはお互い
    相手を思い過ぎて かみ合ってなかった
    ようやく かみ合って~
    ♥♥♥ 
    後は あちらがね…

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    さらんさん、今朝も素敵なお話をありがとうございます。
    キチョル軍団の起こした忌まわしい事態ではありましたが、おかげで王と王妃の間の溝は埋まり、愛情も確認し合えたのですね…。
    口数の少ない、喜怒哀楽を現すことが苦手な王様の心のうちをさらんさんに見せて頂き、嬉しいです。
    さらんさん、曇り空の土曜日、いかがお過ごしでしょうか。

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    >snow1019snow1019777さん
    こんばんは❤超遅コメ返になり、申し訳ありません…
    このお二人は鉄板安定ですね。書いていても気が楽というかw
    ヨンで頂き、ありがとうございました❤

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    >muuさん
    こんばんは❤超遅コメ返になり、申し訳ありません…
    実は私の中では、王様はお喋りキャラですw
    それも余計な事ばかりww
    それ素直じゃないですよ?と突っ込みたくなる感じです( ´艸`)
    ヨンで頂き、ありがとうございました❤

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    >いくよさん
    こんばんは❤超遅コメ返になり、申し訳ありません…
    唸って頂けたら嬉しいです❤
    ヨンで頂き、ありがとうございました❤

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    >くるくるしなもんさん
    こんばんは❤超遅コメ返になり、申し訳ありません…
    あちらがね・・・ww
    そうですね、このあたりから私にとっては
    言葉不足が目立ち始めた頃でした。
    だから【都忘れ】が生まれるわけですが。
    懐かしいです。
    最近あの勢いより、史実を追いかける部分が大きくなっているので
    この休みの後は心機一転、ラストスパートかな、と思っています。
    アメリカでリフレッシュして、生ミノ氏を見て、何か変わるかなー。
    ヨンで頂き、ありがとうございました❤

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