堅香子 | 6

 

 

チェ尚宮様が近づけてくれた蝋燭の灯も加えた明るい部屋の中、王妃媽媽の首の傷を拝見する。
完全に塞がった縫い傷。
若い女性の首に大きく残ってはしまったけれど、それでもお命は助かった。
しばらくすれば、この傷も薄くなるはず。良かった。

私は目を上げて、お部屋の入口で心配げに待つ王様に頷く。
チェ・ヨンさんに無理に連れてこられた高麗。
最初にお見かけした王様と媽媽は私が国史で習ったみたいな、お互いを失って絶望で国を投げ出すご様子には見えずに、ちょっと心配したけど。
それでもやっぱりこうして見ていると、 王様の御心にはいつだって媽媽がいらっしゃるのが分かる。
だって診察中の媽媽を見る、その不安げな目。
そして私が振り返って頷いた瞬間、一瞬媽媽に向けた光の中の、溶けるほど優しい眼差し。

「傷は閉じました」
こうやって、人の心は動いて行く。
私がいることが原因かどうかは分からない。
でも結ばれるべきお2人は、私がいてもいなくてもきっと呼び合って、いつか必ず巡り会うんだろう。

「もう1か月すれば、跡も消えるでしょう。私、腕はいいんです」
その声に媽媽と、媽媽の横のチェ尚宮様が微笑んだ。
「いかがですか?傷口もきれいでしょ」
入口の王様、そしてその横のチャン先生へ振り返って得意げに言うと、王様とチャン先生が近くに来る。
王様は媽媽のお首を確かめるようにご覧になって
「まさしく」
そう静かに答える。

肌を見られたせいか、媽媽のお顔も少し緊張してる。
「薬はチャン先生から処方をお願いしますね」
「畏まりました」
チャン先生が、王様の後ろからそう言って頷く。

王妃様がそのやり取りをお聞きになりながら
「また一人、助けたそうですね」
私に向かってそう尋ねた。
「ああ、あの若い子ですね。簡単な手術でした」

その私の声に
「双城総管府の高官の息子との話であった。
寡人の膝元の開京でみすみす命を落としていれば、あちらに合わせる顔もなかった」
王様がおっしゃった声に
「うーん、そんな偉い方の息子だったんですね」
知らなかったと頷く私に、付け足すように
「双城総管府千戸長、イ・ジャチュンの次男、イ・ソンゲでございます」
そう聞こえる、チェ尚宮様の言葉。

今、なんて
「・・・名前、何ですって・・・?」
「李 子春の次男、李 成桂と申しました」

まさか。

待って、嘘でしょう。
私は驚きのあまり、じっとしていられずに立ち上がった。
「まさか、それじゃ・・・・・・それじゃ、あの子が・・・・・・」
「医仙」

王様が訝しげに私を呼ぶ。
媽媽も、チェ尚宮様も、チャン先生も、尋常でない様子の私にじっと目を当てる。
「あの李 成桂なんですか。歴史の本に出てくるイ・ソンゲ?」

誰も答えを返してくれない沈黙の中。
部屋に差し込む光だけが 温かくて優しい。
その光の中、私はチャン先生へと進んだ。
「・・・ねえ、私がもし治療をしなければ、王妃様は助からなかった?」
突然の質問にチャン先生は少し戸惑うように頷いた。

「恐らくは。深い傷を負われましたから」
「もし私が訪ねなければ、慶昌君媽媽は毒で死ななかった?腫瘍で命を落としても、毒ではなかった・・・?」
「医仙、何をおっしゃっておられるのか」

その様子に心配げに、王様がそう確かめて下さるけれど。
目の前のチャン先生が私の心中を慮るよう、静かな目で見守ってくれているけど。
私の習った歴史上は、慶昌君媽媽は毒殺されている。
でも実際には、私が行かなくても毒殺されていたの?

それなら私がここにいる事で、歴史が変わっているんじゃない。
私がここにいる事で、あの時に国史で習った歴史が、正しい方向へと修正されていってるってことになる。
私がいなければ、王妃様と王様はもしかしたら、冷えた政略結婚のままだったのかもしれない。
それどころか王妃様はあの国境の刺客に襲われて、そのままあそこで命を落としていたかもしれない。

「あの子・・・あの男の子、私が治療しなければ、そのまま亡くなったのかしら」

虫垂炎の死亡率は手術法が確立するまで、60%を超えていた。
私には簡単な手術でも手術法が確立するまでは、蜂窩織炎性に進行して腸全体に膿が回って。
最終的には破裂した細菌性の内容物が腸に回って腹膜炎を起こし、腹腔内で膿瘍を形成したり。
内容物が血管に入り、全身に広がって敗血症を発症したり。

「あの子が・・・・・・あの子が本当に、あのイ・ソンゲだとしたら」

我慢できずに椅子へと崩れ落ちる私に
「どうされました。お知り合いか、千戸長の息子と」
王様のその声に、私はゆっくり答えた。
「あの子が・・・・・・」
私の声しか聞こえない。
「ずっと、ずっと先の将来、李氏朝鮮を・・・・・・」

そう。イ・ソンゲが、李氏朝鮮を建国する。
1393年。高麗の最後の王、恭譲王を廃して。
そしてその建国に至る最初のクーデターは1388年、威化島回軍から始まっている。
明の遼東半島を討つ為出兵した李 成桂は、威化島回軍で軍を掌握して。
開京へと引き返して、開京で侵攻に抵抗した崔 瑩大将軍たちを討って。

そう。チェ・ヨン大将軍を討って。
私は口を押え、全ての息をのみ込んだ。
「王様」
その時前触れなく駆け込んできた姿、部屋に響いた深い声に、みんなの目が私から逸れた。
「チェ・ヨンです、医仙をお借りして宜しいでしょうか」

 

奪われた名簿、そして入密法。
嫌な事は重なるものだ。
手裏房からようやく入手し、王様が目ぼしい者に御手ずから印をつけた名簿を奪われた。
奪ったのは奇轍に間違いないだろう。何のために必要かなど、火を見るよりも明らかだ。
例の名簿に載った者、まして印のついた者を奇轍が見逃すはずもない。

王様があの時お戯れにおっしゃった。
「寡人からの官職の下賜が、この者らにとり冥途の土産になるやもしれん」
そのお言葉が現実になるかもしれん。

そして入密法。
遠くの物音ひとつすら聞き分けるというその妖術。
あの奇轍の手下の笛吹が使うと手裏房からの連絡を受け、俺はこの方のいる坤成殿へ駆け込んだ。
あなたはおっしゃった。奇轍の聞きたいことをそれらしく。
嘘か真か、確かめる術などないからと。
あったではないか。あるではないか。あの男があなたの声を、皇宮に忍んで聞いていた。

あなたにあの部屋で関わるなと言われた後、俺は奴を屋根の上から逃がしてしまったのだから。

これ以上は無理だ。奇轍を謀るなど。
俺に出来るのは、この命を捨ててこの方を護る、
刺し違えても奇轍の息の根を止める、それしかない。
この方を連れどこへ逃げようと、あの手が届かぬ場所はない。
高麗はおろか、元にすら奇皇后がいる。
ならばその手ごと叩き斬るしか、俺にとっての道はない。

「離してよ、ちょっと!」
暴れるこの方の腕を握ったまま引き摺るようにどうにか無人の回廊隅まで連れ出し、周囲へ十分目を配る。
話さねばならん。そして絶対に聞き入れてもらう。
それしかこの方を、安全に帰す道など見当たらん。
「お話が」
「それより大変なことになったわ!」
「医仙」
「私を連れてきたあなたの責任よ」
「少しお黙り下さい、その事を話したいんだ」

伸ばして掴もうとした腕を力一杯振り払われ、鎧越しに蹴りまで入れられ、その顔をじっと見つめる。
「社会常識なんて知らない適当な私にだってわかるわ。歴史を変えちゃダメって注意してきたはずなのに」

無理にでも黙らせねば。
そう思い大きく一歩近付くと
「最後まで聞いて」
この方は一歩引き、俺の顔をじっと見つめ返した。

話すな。その声が漏れれば。あの男に届けば。
「手術をしたわ。医者としての使命感じゃない。キチョルに会うために患者の命を口実にしたの。
その結果、手術で助けたのは誰の命だったと思う?」
「お静かに」
そんな制止を聞くはずもなく、目の前の方は憑かれたように滔々と話し続ける。

「あの子は大きくなって将来」
「黙ってくれ」
「何故よ!怖くてたまらないの、他には言えない、 私が誰を助けちゃったか」
頼む、黙ってくれ。
これ以上あなたが危険な目に遭う前に。
俺の言うままその口を、静かに閉じろ。
何処の影であの耳が声を聴いているか。
どの屋根の上にあの姿が潜んでいるか。
あなたを護らねばならん、だから黙れ。

「そなたの言う歴史やらこの国の行く末やらのおかげで、そなたの命が危険に晒されていると分からんか!」
「私、未来であなたを殺す人を、助けてしまった!!」
声を荒げた俺以上に大きな声で、涙をいっぱい溜めた目でこちらを見つめ、この方がそう小さく叫んだ。
「ねえ、どうしてなの。教えてよ、どうして私がこんな」

俺の方が聞きたい。
何故医者として命を助けたあなたが泣くんだ。
どんな人間であれ患者だろう。 患者の命を救うのが医者だろう。
分を弁え役目を果たして、何故泣くんだ。

その時開いたままで辺りを警戒していた内気が、離れた何かを確かに捉える。
その瞬間に振り向くと遥か離れた屋根の上、其処に佇むあの白髪を見つけた。
離れすぎている。
「迂達赤!」

その声に周囲の歩哨に当たっていた奴らが一斉に集まる。
「医仙を守れ」
「は!」
周囲を迂達赤の壁で守られたこの方を確認し俺は駆け出した。

 

あと僅か。もう僅かで手が届く。この手でその口塞ぐしかない。
あの方の声をこれ以上、奇轍に漏らす訳にはいかん。

跡を追う俺の前、その白い髪が遠くなる。

屋根の上から、その白い気配が遠くなる。

最後に皇宮の隅、完全にその姿を見失う。

己の力の足りなさに、俺は思い切り舌打ちをした。

 

 

 

 

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