堅香子 | 4

 

 

思った通りの虫垂炎。
キチョルの屋敷から持ち帰った手術道具であの男の子の開腹手術をしながら、ほっと息を吐く。
まだ虫垂炎。蜂窩織炎性まで進んでいない。これなら簡単よと、自分に言い聞かせる。

きれいに膨らんで形を保ったままの患部だけを切り取る。
丁寧に。慎重に。薬が足りない分、万一にも周囲に膿瘍や浸潤がないように、よく確認して。
その瞬間、額のマイクロスコープが音を立てる。
次の瞬間、確保していた視野が、急に暗くなる。
まさか、電池切れ。

私は顔を上げる。
その時、努めて平静を保とうとする向かいのチャン先生と目が合う。
集中力を切らしちゃダメ。患部を確認するために下を向く。
出来る。あともう一息。

 

「困ります」
マイクロスコープの接触コードを確認している私に向かって、大きな鎧姿が低い声で言いながら部屋に入ってきた。
ただでさえ、この治療道具のせいでイラついてるのに。
道具に頼んなきゃ患者の虫垂炎一つ手術できない。
チャン先生のような灸の知識も生薬の知識もない。
診断を下したら、即、手術するしか能のない私。
脈も読めない。早いか遅いかしかわからない私。

そんな私を狙って、天界へ道案内させようとしてるキチョル。
そのキチョルとディールするために、日記のために患者の命を、1つしかない命を口実に使った私。
こんな壊れかけの手術道具と引き換えに、患者の大切な命を危険に晒した私。
こうやってこの人を走らせて、小言を言わせる私。
守ってもらわずに、何一つできないこの世界の私。

最低。全部最低。

「徳成府院君の屋敷へ出向いたとは、本当ですか」
「ほんとよ」
「王様が医仙を取り戻すのにどれほど苦労されたか」
「頼んでないのに余計なことして」

ここに戻ってくればそうやって、チェ・ヨンさん、 あなたにまた面倒と心配を掛けるだけでしょ。
何もできない、道具がなきゃ役にも立てない、患者の命を自分の欲のだしに使うような私のために、あなたをいつだって厄介な事に巻き込むでしょ。
その場に座っていられず、私は立ち上がって部屋の隅、棚の方へと歩く。
今後役に立つか判らない壊れかけのマイクロスコープを手に。
「あの屋敷で良かったのに。逆賊だの何だの芝居までさせて」
「・・・そうでしたか」

それだけ言って、チェ・ヨンさんが静かに踵を返す。
出て行く背中に私は声を掛けた。
「あのね」
その大きな鎧の後姿が止まる。

「あの時はごめんなさい」
その声にゆっくり、鎧姿のあなたが振り返る。
「慶昌君媽媽のこと」
役立たずの医者で。
「苦しんでるのに、医者として何にもしてあげられなくて」

あなたのあの悲痛な懇願の叫びを思い出す。
─── 医仙だろう、どうにかしろ。
それなのに、何もできなくて。

「そしてあなたに、あんな悲しいことをさせてごめんね」
そばにいてくれと言ったあなたに背を向けて。あなたを信用しないで疑って。
慶昌君媽媽の血にその手を染めたあなたの、心の中すら読めなくて。
媽媽の命も、あなたの心も救えなくてごめんなさい。

私は頭でっかちで、道具に頼った手術しかできなくて。
毒の知識も薬の知識も、鍼の知識も灸の知識もなくて。
マイクロスコープが壊れたくらいで手術中に動揺して。
人手を割いて護衛をつけられなきゃ1人で外も歩けなくて。
歴史を変えちゃいそうな日記まで見つかって、そしてあれを読めるのはこの世界で私だけで。

「あなたをあの時、刺したことも」
医者なのにあなたを殺そうとしたことも。
「謝るわ」
あなたの命を、1つしかない命をこの手で奪おうとした。
それなのにあなたは今もこうして、私を守ってくれる。

その声に、あなたが静かに私を見返す。

 

一体この方は何を言おうとしている。
気が強いのはいつもの事。口達者には慣れてきた。
外出を咎められ、腹を立てたのは判る。
しかし今日は何をこれほど尖った物言いをされる。
そう思い、距離を置くため部屋を出ようとした。

「生きててくれてありがとう。本当にありがとう」
途端にこれだ。
まるで、これではまるで。

「迷惑ばかりかける私を、いつも守ってくれてた。
今までの全てのこと、心から、本当にありがとう」
そう言って卓へ戻り椅子へ腰かけたあなたの向かい。
二歩で戻った俺は、そのまま腰を下ろす。
「何です」

その声に俯いていたこの方が真直ぐ顔を上げた。
「もう1人で大丈夫」
「何が大丈夫なのです」
「徳成府院君と渡り合う方法を見つけたの。昼間試したら手ごたえを感じた」

だから目を離せんというんだ。
正面の向かい合うこの方から顔を背けて息を吐く。

あの奇轍に目をつけられ無傷で渡り合えるわけがない。
今はこの方を大事だと甘言を並べた処で、相手は奇轍。
利用し尽し己の欲を満たした後、この方がどうなるか。

「あの人、私から手に入れたいものがあるの。
それを盾にうまく取引すれば、手帳も取り返せると思う」
「あの男の欲しがるものとは」
「あなたに関係ないわ、私の問題よ」
「言ってください」

僅かに大きくなった声に、あなたが目を瞠る。
そして少し気を悪くしたように
「私の知る歴史よ。未来のことを知りたがってる。だから」
「そんな大切なものを、あの男に渡すのですか」
「教えるふりだけ。望んでる答えを適当にそれらしく言ったり。本当かどうかなんて確かめる方法はない」

思った通りだ。
そんな浅知恵、奴は見抜いているに決まってる。
「徳成府院君を、甘く見てはなりません」

 

あなたの深い溜息に、その顔をまっすぐ見る。
「私に構わないでって言ってるの。自分の力でどうにかして元の世界に戻るから」
私の声に正面のあなたの表情が、静かに固くなる。でも、歴史を変えたくないから。
これ以上、あなたに近寄りたくないから。あなたの厄介な荷物になりたくないから。
心の中にしっかり引いた線を、超えてほしくないから。

「もう会えないかもしれないから」
私の声に黒いその目が、幕を下ろすみたいに暗くなる。
「お礼を言いたかったし、ごめんねって言いたかったの」

その視線はまだ、私に戻っては来ない。
それでも私は目の前のチェ・ヨンさん、あなたを見て、言いたかった言葉を伝える。
「出来るだけ戦いは避けて。怪我、しないで。傷が癒えたらしっかり食べて」

やっと戻ってきた目に、そう訴える。
他の強がりや、後悔だらけの言葉じゃない。
これだけが本当に、心からの言葉だから。

元気でいて。私がどこに行っても。あなたには本当に感謝してるから。
守ってくれたこと。そばにいてくれたこと。
こうやって、生きててくれること。

 

あなたには関係ない。

そうか、俺には関係ないのか。

構わないで。

そうか、俺は関われないのか。

最後に頭を下げた目の前のこの方に何も言えず、席を立つ。

そう言われ諦められるなら最初から手を伸ばしたりしない。
手を伸ばしあなたを天界から攫って、此処へ連れてきた。
そして己の武士の名を懸け、無事に帰すと約束した。
その約束は少なくとも、この俺の中では未だに生きている。

しかし今のあなたに何をお伝えしようと、聞く耳は持つまい。
典医寺のこの方の部屋を出しな、入口を守る為に立つトクマンの頭を強引に引き寄せ、その耳元で鋭く伝える。
「あの方を二度と、外へは出すな」

何処へも行かせん。あの男の手になど渡せん。
あの方の、あの無鉄砲さを許す訳にはいかん。
たとえあなたに何を言われようと、必ず護る。
この命を懸けた以上、誰にも手出しはさせん。

放っておけと言われ、ではと言って引ける程度なら、最初から顔を見に走り回ったりなどはせん。

イムジャ。何を言われようと手放したりせん。
あなたを護るため、安全に帰すため、約束を果たすまで、俺は必ず生きねばならん。

 

 

 

 

 

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