2014-15 リクエスト ｜ 鸛・2

心配過ぎて、のんびり風呂に入るなど到底できん。
目を離しているこの瞬間にも、何かが起きそうで。
烏の行水どころの騒ぎではない。
形だけ湯をかぶり、申し訳程度に体を擦る。
体中から水を滴らせ大急ぎで着替え、そのまま部屋へ取って返す。

慌ただしい湯浴みの後、差し向かいで夕餉を取る。
卓の向こうのこの方の、食べる様子は変わらない。
顔色も、その頬も唇の色も、いつもと変わらない。
瞳の怠さも収まったようだ。

その瞳がふと上がり、此方を真直ぐ捉える。
「ヨンア」
紅い唇が動き、漸く己の名が呼ばれたと気付く。
その声に瞳へと眸を戻すと、目の前のこの方は困ったように眉を寄せている。

「そんなに見られたら、ご飯食べにくい」
「しかし」
「しかしじゃないの、あなたもちゃんと食べて。約束する、おかしかったら絶対言うから」

その声に息を吐き、味の判らぬ飯をどうにか口へ放り込む。

******

静かな寝屋、落とした油灯だけが優しく揺れる。
その薄闇の中、夜着の薄物を纏ったこの方が俺の腕の中に滑り込んでくる。

互いの睫毛が触れる距離で、静かに見つめあう。

これはバタフライキスって言うのよ、蝶々の口づけ。
まるで蝶が触れてるみたいな感じだからかな。

この方から聞いたのは、婚儀のすぐ後だったか。

この睫毛を擽る蝶の口づけを味わいながら、瞳を覗き込む。
いつもであればもう蝶だけではなく本物の唇を黙って盗むところだが、今宵はそうもいかん。

様子は変わらぬ、判っているのだ。
帰宅してよりずっと見て来た。触れて確かめもした。
それでも何処も変わらぬのだから、取り越し苦労と言われても仕方ない。

しかし俺には確信がある。
絶対に違うのだ。何処とは言えずとも。

「まだ考えてる」

蝶の口づけの途中で、この方の唇が動く。
そうだ。この口づけの良いところは、この方の声が聞こえるところだ。
盗んだ唇から洩れるのは吐息ばかりになり、大切な声を逃してしまう事もある。

「しかし」
その言葉を、今宵はこの方が盗む。盗んで吐息に変える。
盗みながら夜着を滑らせ、肩から落とし、髪をかき上げ、この腕の中に身を委ねる。
まるで闇の中に浮かぶ白い蝶のように。
その触覚のような白い腕が伸び、この手に触れて柔らかく握り締め、教えるように導く。

導かれたその瞬間俺は身を引き、寝台の上にがばりと起きた。

瞼を固く閉じる。跳ね上がる心の臓を宥める。
唇を噛み締め、干上がった咽喉を懸命に湿らせる。

息を吐き、吸い、また吐いて。

思い出せ、あれはいつだった。
この方が腕の中、紅い顔でそっと首を振ったのは。
割れ鐘を叩くよう、出鱈目に動く頭の中。
どうにか整理しながら、まず大切な事を思い出せ。

いきなりの俺の態度に、寝台のこの方はゆっくり夜着を羽織り直す。
肌を隠して大きな目を開き、じっと俺を見る。
「大丈夫って、分かってほしいのに」

その声に弾かれるように、油灯の蜂蜜色の光に浮かぶ俺の白い蝶を見た。
夜着に半ば覆われた白い蝶。
その下に隠れる白い滑らかな肌の稜線を。

大丈夫な事があるものか。

「･･･ウンスヤ」
首を振る俺に小首を傾げ、声を待つ小さな耳が聞き逃す程の掠れ声で。
「最後の、つ･･････」
続かぬ言葉をその瞳で催促される。
どう伝えれば良い。まさか男の己の口から。
「き、のも」
「ヨンア？」

これで分かるはずも、通ずるはずもない。
愛する妻の体のことだ、躊躇するなと叱咤しても。
これ以上口に上がらぬものを、どうすれば良い。
「どうしたの」
その声に唇を引き結び、肚を決めて一気に伝える。
「月のものは」
「･･････え？」

頼む、訊き直す事だけはするな。
俺が懇願するようその瞳を覗き込むと、意味は通じたのだろう。
次の瞬間この方の顔に薄明かりでも判るほど、ぱっと朱が差した。

「それはないと思う」
「･･･ウンスヤ」
「だっておかしいもの」
この方は俺を見て首を振り言った。
その顔は俺の愛しい蝶ではなく、既に高麗の医仙だ。

「私の周期は･･･ああ、もうこれは置いといて。受精のタイミングは、最終の生理から約2週間後。
そこで着床があって、約2週間後の生理が来なくて検査をするのが通常の自然妊娠の最速パターンよ。
私の前回･･･は約3週間前。可能性はゼロじゃない、勿論。
でもこのタイミングであなたが気づくなんて早すぎる。気のせいだと思うわよ、考え過ぎじゃないかな？」
「絶対と、言い切れますか」
「え？」
「絶対に違うと、言い切れますか」
「可能性は･･･勿論あるけど･･･」
「ならば考えてほしい」

何処かが明らかに違うのだ。それだけは判る。
まして触れて確かめ、ここまで違ったのだ。

「キム侍医に診脈を」
「ヨンア、もう夜遅いのよ」
「では明日一番で」

言い張る俺に困ったように目を当てて、この方はようやく渋々頷いた。

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