年末年始:2016 再開祭 | 残痕・前篇

 

 

【 残痕 】

 

 

「・・・あ!」

床に落ちる刃物の鈍い音、扉を叩きつけるよう開く音。
その声に続いた二つのうち早かったのは何方だったか。

呆然と立ち竦む眸の前、困ったように顔を顰めてあなたが笑う。
「・・・驚いた?ごめん、ちょっとやっちゃった」
白い左の掌を、右の手で強く押さえて。
それでも押さえ切れぬ赤い雫を、厨の床に点々と零して。

妙な時に妙な事を思い立った俺が悪かった。
この方の厨仕事が少しでも捗るように。
正月の料理が少しでも早く終えられるように。

竈を見張る合間に、思い立ち庖丁を砥いでおいたりしたのが良くなかった。

刃物の扱いには人一倍慣れていると高を括っていた。
あれ程鮮やかに天界の医術の腕を振るう方だからと。
しかし思い返してみればこの方が慣れてるのは、天界の医術に用いる、小指の先ほどの小さな刃物を握る事だけだ。
俺がお渡しした小刀でさえ、扱い方を教えねば構えすら儘ならぬ不器用な方なのに。

厨に飛び降りその赤く染まる掌を見る。
切れたのは左の小指の付け根のまだ下。
其処からこの方の息と、そして鼓動に合わせて今も滲む赤い雫。

散々嗅ぎ慣れた筈の匂いに眩暈がする。
小さな掌を押さえるこの手の震えに気付いたか、あなたが笑うと右の手で逆にこの手を握り返してくれる。

「大丈夫よ、包丁でちょっとやっちゃっただけだもん。医者が包丁で手を切るなんてカッコ悪すぎ。みんなには内緒よ?」
込み上げる後悔と冷たい吐き気を呑み込み、その不器用な励ましにようやく頷く。

「そんなに怖い顔しないで。せっかくタウンさんと頑張ったお料理がまずくなっちゃう。本当に何でもないから。ん?」
「深くは」
「あーもう、全然ないない。これなら」

あなたは握り締めたままのこの掌からそっと逃げると、眸の前で傷を開き指先で確かめる。
その赤い傷を向いから見るだけで。
医官だからなのか、己の傷だからなのか。
慣れた手つきも、平然とした目つきも。
「早く手当てを」
「うーん、手当てって言ってもねえ」
何処をどう捻れば、そんなに暢気な声が上がる。
怒鳴りたい気持ちを必死で堪える俺に向け、この方は困ったように首を傾げた。

「まあ消毒して、圧迫しとくわ。その後包帯巻いとけば問題ないから。
それより良かったー、お料理ほとんど終わってて。あんなにみんなを誘っといて、お料理がなかったらあなたの顔つぶ」
「いい加減にしてくれ!!」

料理だの、皆だの、俺の顔だの。
この方は本当に判っているのか。
あなたが怪我を負ってまで振る舞うべき飯など無い。
そんな相手など、この世の何処を探そうといない。
その血を流してまで保つべき面目など在る筈が無い。

唯でさえ堪えていた。
康安殿の回廊で居並ぶ迂達赤の奴らに微笑みかけ、誘い声を掛け、そして労い気遣うあなたに。

それでも堪え切れたのは、知っているからだ。
奴らが俺を慕うから、そんな奴らを労っていると。
奴らが家族だから、あなたは黙っていられないと。
全て俺の為だと判っているから、どうにか堪えた。
あなたが拵えた飯を振る舞う、それを他の男らが喰う、そんな餓鬼じみた悋気を捻じ伏せて。

それでもこうして血を流してまで、気に掛けるべき相手など居らん。
それは俺も同じだ。そうして傷を拵えてまで想ってくれなくて良い。
「無駄口は良い、早く手当てを」
「待って、ヨンア」

これ以上怒鳴りたくない。元はと言えば俺の余計な節介の所為だ。
己に腹が立って厨を出ようと背を向けると、あなたの声が掛かる。
「そんな血だらけの手じゃダメ。洗わないと」

振り向けばその瞳が先刻まで抑えていた傷からの血で染まった俺の掌を差す。
あなたの血。
この掌を染めるのも怖く、けれど洗い流す事も出来ぬほど大切で。

どうして良いか判らずに立つ俺の掌を、無事なあなたの右手が握る。
「そんなに怖がらないで?」
「それは」
それは無理な相談だ。
あなたが俺の小さな咳にすら心を砕き、夜の寝台で瞳を開くように。
「こんな切り傷、研修医時代はしょっちゅうなんだから」
「そんな」

そんな事知るものか。
この眸の前でその血が滴れば、交わした誓いを守れぬ男に成り下る。

護ると言った。この命が尽きるまで。
傷つけぬと、離れぬと、次もこの次もその次も。
俺がつけた傷なら、その傷ごと癒してやると。
それでも俺が研いだ刀が元では、あなたに顔向け出来ん。

「ねえ、ヨンア?」
「はい」
「せっかくの大みそかよ?そんな顔してたら、来年の福が逃げちゃう」
「・・・イム」

その時表から近付く気配、騒めき声に息を吐く。
一拍遅れて気付いたあなたが大きく笑んで、傷の事など忘れたように、開いたままの厨の扉向こうへ目を投げる。

「・・・厨に籠って逢引か。疾うに夫婦になったと思っていたが」
「余計な口出しするんじゃないよ。ヨンア、ゆっくりお遣んな」
呆れたように扉から掛かる叔母上の声。
そしてその後から覗くマンボが、叔母上を強引に部屋内へと引き摺り戻して行く。

黙ったまま厨の扉を上がり、居間に腰を据えた邪魔者たちを一瞥する。
叔母上、マンボ、そしてチホとシウル。
その後から嬉し気にタウンとコムも入って来る。
「ヒドは」
「明日、気が向いたら来るってさ。今晩は何か手伝えないかと思って、俺達だけで勝手に押し掛けた」
シウルが笑い、床に座す低い処から俺を見上げた。

「・・・叔母上」
部屋を抜けざま声を掛けると、この背で叔母上の振り返る気配。
「あの方が手を切った。手当てを頼む」

それに返る声は無く、ただ気配だけが動く。
立ち上がり、扉を抜け、厨へ降りてあの方へ寄る叔母上。
その手を確かめ息を吐き、まだ背を向け突っ立ったままのこの背を呆れたように眺め、あの方を諌めるように居間へ連れ戻す。

幾ら浅い傷でも、俺の言う事は聞かぬ方でも、叔母上には逆らえぬ。
二人分の足音が居間に戻って初めて安堵の息を吐き、寝屋へ向かう。

俺が出来る事と言えば、寝屋のあの方の荷の中から消毒に使う小さな薬瓶を探して運ぶくらいのものだ。

 

 

 

 

ウンスが怪我をしてしまって。刀傷ができてしまうのですが、それはウンスのせいではなくて。縫わなくても治り、傷も残らないのだけれど、ヨンがすごく心配して…。というような小さくもないのだけれど、そんなきっかけでヨンとウンスが想いを深め合うような、そんなお話しを…\(//∇//)\ (nananahappymoonさま)

 

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