2016 再開祭 | 片割月・中篇

 

 

「故地回復とな」
「は」
短く頷いたチェ・ヨンは、王から戻る声を待つ。

「此度の遠征で何やら大きな土産を持ち帰ったようだが」
普段ならば自分の政に嘴を挟む事は無い。
慾もなく出しゃばりもせず、但しこの道が誤った時だけは譲らない。
そんな男の臣下の域を明らかに超えたと思える提言に、寧ろ愉快気に頷いた王が、目で先を促す。

「元の外華内貧、目を覆わんばかり。国の根幹の揺れる今こそ好機」
「ふむ」
「永興の双城も含め、この際一息に故領を取り戻すべきかと。立て直す機会を与えてはなりません」
「大護軍、寡人はそなたに休めと申し付けたな。覚えておろうか」

何故王はこれ程物言いたげな眼差しで己を見詰めるのか。
双城総管府を含む故領奪還は、王の永年の悲願でもあった筈だ。
此度の遠征を王が受諾したのも、トゴン・テムルの要請を名分に高麗の武力誇示の意味が大きかった筈だ。

だから行かせてくれと頼んでいるのに。
一刻も早く北方故領を取り戻し元を排除すると言っているのに。
不満が浮かばぬよう努め、チェ・ヨンは顔を伏せたままに待つ。

「何を」

そのまま声を切ると、玉座の上で僅かに身動ぐ気配がする。
王が体ごと己に向き直ったのが、視界の端に映る影の形が変わって気付く。
玉座の龍細工の肘掛に両肘を突き、組んだ掌に顎を乗せ、何故か痛ましそうな目で王はチェ・ヨンを見つめた。

「成そうとしておるのだ。チェ・ヨン」
「・・・我がものを」

初めて目を上げ王を見詰めると、チェ・ヨンは迷いなく告げた。

「取り戻さんと」

縺れた糸の結び目は一度には解けない。
解こうとするなら引き千切らねばならない。

千切る訳には行かない。たとえ細くとも確かに繋がったこの糸を。

平然を装った顔。
しかし托克托に話を聞いて以来、チェ・ヨンは胸裡にその糸玉を抱いていた。
高麗と天界。百年前と今の世。
そもそも結びつきようもないものが結びついた。これ以上何が起こっても不思議はない。

縺れればまたゆっくりと解く。解いてまた手繰り寄せる。
この唇を押捺した約束の指に繋がる、細く儚いその糸を。

翻意の気配の微塵もないチェ・ヨンの眸に、王は嘆息を漏らした。

 

 

*****

 

 

焦っている。
己を俯瞰しつつ、康安殿を退出したチェ・ヨンは苦々しく笑んだ。

こうして王に日参し、一日も早い故領奪還の王命の宣旨を懇願し。
許されぬのならこのまま皇宮を抜け出してでも北へ向かうだろう。
あの時はどうにか逃がす為に。此度はどうにか掴まえる為に。

声が聞こえた気がした。確かにあの、元の見慣れぬ蒼穹の下。
遥かな地平の緩やかな弧を見渡せる草原の中、愛馬の背に跨って。
聞き慣れぬ音で溢れる仮寝の舘、胡風の丸窓から射す月明りの許。

たとえ何処に居てもあの声が護ってくれる気がした。
死なないで。

死なないで。

そこにいる?

行かないで。

何処にも行かない、俺は此処にいると、その声に幾度返しただろう。
だから安心しろ、早く帰って来い、待っていると幾度伝えただろう。

醒めてみれば夢だと思う。けれど本当に夢だったのか。
だからこそ眠る事も忘れ、ひたすらに北方へ出向いた。
一つでも多く故領を取り戻せばそれだけ安全に戻れる。

何かに取り憑かれるように、そう考え続けた。

阻む敵を斬り続け、血に染めた鬼剣を下げ走り続けた。
追っていたのはあの鮮やかな面影。
逃げていたのは傍らにいない現実。
戻って来ると信じながらも、誰より怖かったのは自分かも知れない。
手を離してしまったあの夜に、思い上がっていた自分を罵り続けて。

托克托に聞いて以来、神託のような一言が耳に残って離れない。

天門で待て。

もしも己が此処に居る時、あの門が開いてしまったら。
あの方が迷子のような声で、其処で俺を呼び続けたら。

そこにいる?

故領奪還に尽力し平定に腐心したとしても、迷わせては意味がない。
女人の足で帰れる場所ではない。ましてや地理に不慣れなあの方が。

そこにいる?

そんな優しく悲しいあの声が聞こえる、夢現の夕暮れの部屋。
寝台に横たわり、窓から射し込む紅い夕陽の帯へ指を伸ばす。

朱と黄の雲の重なる暮れ空の中を、塒の山へ戻る鳥の群れ。
ただ羨ましくその姿を追い、己を縛り付ける柵に雁字搦めになって。

飛ばせて欲しいと、チェ・ヨンは願う。
自由に飛ばせてくれ。それだけで良い。
北へ行かせてくれ。それと引き換えに故領ならいくらでも獲り返す。
天門まで行かせてくれ。この眸で確かめ開いて居らねばまた待てる。

声が呼ぶ。
そこにいる?
息遣いすら感じる声を追い駆け、いつまでも待てる。

夕暮れの中、東に浮かぶ淡く白い月。
空が暗くならなければ光を投げかける事は出来ない。
けれど確かに其処にある、幻のように透き通る偃月。

あの方も何処かの空の下で見上げているのか。
静かに満ちる刻を待つ、半分欠けたあの月を。
ああして空に浮かんでいれば、満ちる筈の丸い影は見えるのに。

今宵の月はきっと淋しい。数日で満ちる残り半分を待ち侘びて。

 

 

 

 

1 個のコメント

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    休んでなんていられない
    「我がものを 取り戻さんと…」って
    もう 胸が熱くなっちゃうわ
    ウンスが よんでるかもしれない
    あの場所で 待っててやらねば~って
    (゚ーÅ) 涙が出ちゃうわ

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