ああ、やっぱりだ。典医寺の外、警護に立ちながら俺は息を吐く。
大きく開いた窓の内、あの医官様の叫び声が外まで響いてくる。
まるで耳元で叫ばれているかのような大きな声で。
その合間に典医寺のチャン御医の静かな相槌が、呆れたように挟まる。
俺だけじゃないんだな。あの医官様に呆れてるのは。
確かに隊長を助けてくれた。だけどその前に刺したのだって自分だろ。
斬った相手を助けるなんて聞いたことはないけど、俺には分からない。
勝手に斬って、勝手に騒いで、勝手に怒って。一体何を考えてるんだ、いや、いらっしゃるんだ。
ただでさえ暑いんだ。これ以上熱くしないでほしい。
それでも、もうすぐ交代の時間だ。そろそろ日も傾いてくるだろう。
夕方になれば風も出てくる。早く全て終われば良い。
そうすれば兵舎に戻って水を浴びて、汗を流してそのままぶっ倒れるように眠れる。
早く全ての厄介が終わればいいのに。
俺はまだまだ暮れそうもない、青いままの夏空を見上げる。
「医官様」
早めの夕餉の時刻。医官様の私室の扉の外から、私は静かに声を掛ける。
「なに?」
部屋の中から声が返るのを聞き、目の前の扉をそっと押す。
「今日はお暑いでしょう。宜しければ、夕餉を外に用意させます。ご一緒に如何ですか」
これ以上この医官様から隊長への罵詈雑言を聞くのは苦しい。
隊長の心が、あの言葉少なな朋友の胸の裡が、僅かでも聞こえるその声から判るが故に。
どうにかしてでもまず私が話し、少しでも判って頂きたい。
判って頂かねば、互いが別の方を向いていては、いつまで経っても互いの心が交わる事は叶わない。
「外?」
興味を引かれたような声、此方を向いた目に私は頷いた。
「ええ、裏の川の横にでも」
「虫とか、来ないでしょうね?」
「虫除け菊の香を焚きます。問題ありません」
「虫除け菊?なぁにそれ?」
何、と言われると声に詰まる。その名の通りなのだから。
「虫を除ける香です」
「ふーん」
私の顔をじっと見て、首を傾げた医官様は、次の瞬間大きく笑んだ。
この方は、一体何なのだろう。
私は浮かべられた偽りのないその笑みを、茫然とただ見つめる。
先刻は幼子のように怒り、今は幼子のように笑い。
そしてひとたびあの天界の治療道具を握れば、神医の名に恥じぬ、怖ろしいほどの天界仕込みの腕を振るい。
この方は本当にただ、身勝手で横暴で我儘なだけの方なのか。
私は何か、この方の心を見逃しているのではないのか。
私のまだ見ぬ何かが、この方の中にもあるのではないのか。
あの隊長の心の中に私では太刀打ちできぬ厚い扉が、立ち入りを悉く拒む底無しの沼が、溶かす事の出来ない萬年氷があるように。
そう思いながら、もう一度問いかけてみる。
「虫は寄りません。ですから如何ですか」
「夕涼みに誘ってくれるの?韓方の先生」
その呼び名に微かに首を傾げる。
この医官様は御存知ないのだろうか。それとも既に忘れてしまわれたのだろうか。
「医官様」
「なあに?」
「チャン・ビンです」
「え?」
その丸くなった瞳にゆっくりと笑いかけてみる。
「韓方ではありません。私はチャン・ビンと申します」
医官様はようやく私の意を汲んで下さったか、その声に大きく頷いた。
「私はウンス。ユ・ウンス。短い付き合いだと思うけど、よろしくね?」
そう言って差し出された手。
まるで碧瀾渡の大食国の廻船商人や、天竺の医官たちのようだ。
天の国でもこうして出逢った相手に手を差し伸べるのだろうか。
そして握り合い互いを確かめるのだろうか。
こうして手を預ける事の怖さを、御存知ないのだろうか。
その医官様の小さな手を私はゆっくりと、己の手で握り返した。
医官様をご案内し、典医寺の薬園の裏山を登って行く。医官様は登り始めてすぐに息を弾ませながら、
「ねえ、先生。どこまで行くの?暑くてもうだめ!」
そんな弱音を吐かれる。
「もうすぐ其処です」
私は懐から扇子を取り出すと、大きく広げて医官様へとはためかせ、風を送りながら告げた。
勾配を上がり切った、小高い裏山の上に広がる典医寺の水場。
その水場の小さな東屋に、私は医官様を案内した。
元は水を汲むために臨時に備えたもの。典医寺までの水路を曳いた今となっては、ほとんど使う者もない。
簡素な瀧殿の様相の東屋は、夕涼みには打って付けだった。
澄んだ水を湛え、裏の崖から落ちる小さな滝を望む瀧殿で、医官様は驚いたように足を止め、無言のまま大きく息を繰り返す。
「ここは?」
「典医寺の水場です。水は大切な薬ですから」
「え?」
私の言葉がご理解頂けぬのか、医官様は不思議そうに首を傾げた。
「草を育てるためには、良い水が要る。薬草の加工にも水が必要です。
洗、漂、泡、潤、水飛。火を併せて使う事もございます。
蒸、煮、茹、淬。誤った水では、折角の草が駄目になります。
そうして出来たどれ程優れた薬効を持つ草も、誤った水で煎じれば毒になります」
根気よくお伝えする私の言葉に目を丸くした医官様の
「はぁ、そういうもんなの。漢方はやっぱり非科学的ね」
呟く言葉に、私は苦く笑う。
この方のいらした世界では、恐らく違う薬湯をお使いなのだろう。
王妃媽媽の治療でも、見た事のない大小さまざまな薬瓶に入れたいろいろな水を使っていらした。
「まあ取りあえず、確かにここはきれいね。涼しくて気持ちいい」
医官様は気を取り直すように言い、景色を愛でるように目を泳がせる。
碧の水に、周囲の木々に、枝から漏れる黄色い木漏れ日に。
「マイナスイオンいっぱいって感じ」
「いおん、ですか」
「そうそう、科学的な根拠がないのも似てるわ」
そうおっしゃって一人で楽しそうに笑われると
「ストレス解消にいいとか、疲労回復に効果があるとか」
医官様は東屋の腰掛け段に腰を下ろした。
「水滴が微細に分裂した摩擦で空気が負に帯電する、らしいわよ」
そしてその指が小さな滝を指して
「だから滝とか、噴水がいいって聞いたことがあるわ。なら霧吹きでもいいじゃないのよ、ねえ?」
ねえ、と目を丸くして首を傾げられても。
何をおっしゃっているか要領を得ない私には、はいともいいえともお答えのしようがない。
「そうですね」
当たり障りないようお答えすると、医官様はお見通しとばかり座ったまま此方を見上げた。
「何言ってんだこの女、って顔してるわ」
「・・・いえ、そんなことは」
「いいのよ、思ってる事を顔に出してもらった方が分かりやすい。ここはみぃんな、何考えてるんだかわからない顔してるんだもの。
特にあの男、あの隊長って男。鉄仮面かって」
そこで言葉を切ると何か思い出したのか。首を烈しく振って、
「刺されて血だらけで、あそこに置いてけとか。こっちが様子を見ようとしても寄せつけもしないし。手は振り払われるし」
「医官様」
ようやく話が本題に入れそうだと息を吐き、この方の腰掛ける段の横に二歩近寄った。
「置いて行け、と言われたのですか、隊長は」
「言ったのよ。信じられないでしょ?心拍も落ちてる出血状況で」
「それでは・・・」
杞憂ではないのかもしれない。
私の考えは当たらずも遠からず、的に近いのかもしれない。
「医官様が、隊長に歩み寄ろうとされているのは知っています。けれど隊長は今それどころではないかもしれません」
無理もない、それだけではやはり意味が理解できないのだろう。
医官様は呆気に取られたお顔で、ぽかんと此方を見上げた。

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