一服処 | 正月満月 정월 대보름・後篇

 

 

「隊長!」

冬の早い日暮れ。
西陽に背を押されるように駆けて来た典医寺の庭で、俺を見つけたトクマンが直立不動で頭を下げた。
「医仙は」
「御部屋の中にいらっしゃいます」
「そうか」
「はい」

奴は其処まで言ってあの方の部屋の扉を見遣ると
「今日は珍しく、一度もお顔を見ていません」
と不思議そうに首を傾げる。
「・・・今日は」
「はい。いつもなら一度くらいは外に出せと言いに来られるんですが」

そうか。お前は少なくともそうして一日一度は顔を合わせるわけか。
しかし元はと言えば決めたのも付かせたのも己。
こいつと侍医とが双璧となれば、奇轍も手下もまずは迂闊に近寄るまい。
そしてあの方も自由気儘に出入りはせぬであろうと。
「・・・隊長」

目前の扉を叩きもせず、訪いを告げもせぬ俺に、トクマンの遠慮がちな声が尋ねる。
「腹でも痛いですか」

痛いのは腹ではない。
下らぬ問いに漏れそうな息を咽喉元で抑え、外套の裾を返して扉へ向き直り、その内へ声を掛ける。
「医仙」

途端に扉は開き、庭の薄闇に柔らかな灯が漏れた。
其処から顔を覗かせたこの方は満足そうな笑みを浮かべ
「あー、良かった。じゃあ行こう」

何が入っているのかその腕に桃色の包を抱え、扉の隙間から飛び出して来る。
トクマンは俺を、そして俺はこの方を、それぞれ見詰めて声を失う。
「て、隊長」
「医仙」
「隊長、お二人でお出掛けですか」
「外套は」
「隊長、夜の外出なら俺も伴に」
「えーっと、ちょっと2人とも?!」

呆れたような制止の声に、ようやく互いに口を閉ざす。
「トクマンさん」
「は、はい、医仙」
「今晩は出掛けます。あなたの隊長さんが一緒だし、構わないわよね?」

トクマンは驚いた顔でまずこの方を、そして続いて俺を見て無言で幾度も大きく頷いた。
そして鳶色の瞳は次に俺を捉えると
「で、チェ・ヨンさん。外套って、コートのことよね?これじゃダメ?」

羽織った絹外套を示す指に首を振る。
「雪が来ます」
その声にこの方とトクマンが同時に夜空を見上げた。
「確かに、寒いですけど・・・雪ですか」
確かめるトクマンに頷いてこの方を急かす。
「ですから、外套を」
「あり得ないでしょ。だって雲は多いけど、月もどうにか見えるじゃない?ほらあそこ」

声と共に視線を追えば、黒い空に浮かび始めた白銀の月。
「月を見たくばお急ぎを」

未だ月見処すら決まっていないとは白状出来ぬ。
俺の声にこの方は平然と
「絶対降らないってば!月が見えるほどの夜に雪なんて、聞いた事ないわ」

そう言って笑うと荷を抱え、庭を階の方へ歩き出す。
トクマンは開け放ったままの扉を閉めると、俺にともこの方にともつかぬよう
「お気をつけて」
と深く頭を下げた。

 

********

 

「医仙」

歩き始めてどれ程経ったか。
戦ならば大失態だ。
陣への戻りの刻を計じずに出れば、帰路で無駄に兵を失うこともある。

それでも月が見えるうちはと、皇宮の石畳の径を浮かされるように歩いた。

「ねえねえ、どこで見るの?灯りはないほうがキレイよ」
「医仙」
「ほんと寒いなあ。2月だものね。1年で一番寒い頃よね。だから月もよく見えるんだろうけど。あの頃はどこに行っても暖房が効いてたから」
「・・・医仙」
「チェ・ヨンさんは、お酒好き?飲めそうな顔してる。見る限り肝臓が悪そうな感じもしないし。あ、ねえねえ、この時代にクィパルギ酒はないの?さっきもチャン先生に聞いたけど」

離れれば護れない。
故に三歩の距離に。
先刻から留まる事を知らずに響く夜の中の声を耳に、その背の半歩斜めを護る。

月闇を流れる白い息が二つ。
直に降り始める。
先刻まで石畳に刻まれていた二つの影が見えなくなったのが証。
骨も悴む寒さの中、月を求めて彷徨うなど酔狂としか思えない。

見上げれば既に隠れ始めた正月満月。
「医仙」
氷枝の軋む音。闇の匂い。何より息を吸い込む肺腑まで染み込んでくる凍った空気。

頑として抱えたままの、この方の腕の荷を強引に奪う。
「あ、ちょっとチェ」
「戻りましょう」

急の翻意とも取れる声に、薄闇の中のこの方の気配が尖る。
怒るなら勝手にしろ。俺にはそれよりも大切なものがある。
荷を抱えたままで月も翳った闇の中、歩き慣れぬこの方が満足に進めるわけがない。

難詰覚悟で踵を返すと案の定、この方の歩が止まる。
「医仙」
「荷物は自分で持てるから、返して」
伸びて来る細い指先が狙いを外し、この指先を掠めた時。
これから舞い始める雪より冷たい感触に驚いて息が詰まる。

立ち上る白い息が、この方のものだけになる。

だから言ったんだ。厚い外套を着込めと。
次に白い息が再び二つになった時、その一つは夜目にも白過ぎ大き過ぎる。

望み通り凍る指先に奪った荷を戻し、そのまま冬外套を脱ぐ。
それをこの方の頭から被せ
「着て下さい」
伝えてから改めて、その指先の荷を預かる。

これで奪ったわけではなくなる。
外套の紐を結うのに荷を持ったままでは無理だろう。
薄着なのが悪い。凍るほど冷たい指が悪い。
そのままではあの柔らかな髪まで凍り付く。

何故それに、これほど腹が立つのか。
思い出とやらを作るために来たのに。
この分では残るのは小正月の闇を歩き続けた挙句に怒った俺と、指を凍らせたうえ典医寺に戻ったご自身の記憶だけだろう。

慣れぬ事などするものではない。
それでも思い出より大切なものがある。
無事を護る事。無事に帰す事。

ようやく足を止め無言で紐を結い始めたこの方に向かい合い、足許の沓先に落ちた小石を拾う。
そのまま径に沿う花壇の奥へ鋭く投げると、この方の視線が上がった。
「どうしたの?」
「・・・いえ」

準備は出来たか。
闇を透かすように眸を眇め無言で帰路を歩き出す。
静けさに耐えかねたのか、この方が再び口を開く。

「月にはウサギがいるのよ」
「顧菟ですね」
「え?」
「月兎では」
「高麗でもそう言うの?!」
驚く事だろうか。遥か昔の楚でも謡われる。
だがこの方は満足そうにこの眸を見上げた。

闇夜の中、その瞳が見える距離は近過ぎる。
「・・・はい」
三歩の距離。けれど瞳が覗き込めぬ距離で。
そう思い半歩退こうとするのに。

「ふうん」
その温かさも、白い息の雲も届かぬ距離で。
そう思い眸を逸らそうとするのに。

「なんだか嬉しい。全然違うことばっかりだと思ってたのに、共通点もあるのね」

雲に隠れた月兎を追うよう天を仰いだこの方の、ようやく俺から外れた視線。
そして外れたそれを追い、続いて天を仰いだ俺の、何方が早かっただろうか。

互いの固く凍える頬に落ちて来る、一片めの銀花に気付いたのは。

 

 

 

 

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3 件のコメント

  • ちょっとお~
    でいとなんだから
    ふたりだけにしてちょうだい(笑)
    まったく♥
    世話焼きテジャン
    ウンスがウラヤマシイわ

  • さらんさん
    おはようございます?
    お部屋の模様替えされたんですね~(^.^)
    お話が探しやすくなり、読みやすくなって嬉しいです。
    ありがとうございます❤

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