一服処 | 正月満月 정월 대보름・結篇(終)

 

 

「だってあの時は月が出てたわ。あなただって見たでしょ」
「変わるのが天候です」
「だからってこんなに早く変わらなくてもいいじゃない!」
「風が早かったのです」

階を降りながら辿り着いた典医寺の部屋前、トクマンが言い合いを続ける俺達に驚いたように頭を下げた。
驚かれても仕方がない。この方は大き過ぎる俺の冬外套をすっぽり着込み、俺は肩から桃色の荷を負って。

それでも気を取り直したか、トクマンはそんな珍奇な形の二人連れにようやく声を掛ける。
「お帰りなさい、隊長。早かったですね。何か」
「帰れ」
「え」
「俺が付く」
「は、はい!」
「チュンソクに伝えろ。積もりはせん」
「分かりました!」

その声を鵜呑みにした奴は最後に懐から塩温石の包を取り出すと
「寒いですから、隊長、これ」
そう言って俺の手に握らせ、一礼と共に階の方へ駆け出した。
「・・・よっぽど帰りたかったのねー」
この方は奴の背を見送って小雪の中で肩を竦め、思い出したように扉から部屋へ駆け込んだ。

 

風雪に晒された白い頬と蒼い唇が、部屋の暖かさで緩んでいく。
ようやく血の色を取り戻すこの方に安堵の息を吐く。
預かっていた荷を卓上に据えると同時に、この方の部屋の裏扉を叩く音がした。

この方が驚いたように椅子から腰を上げ、扉を開けに走る。
顔を覗かせた侍医は部屋内の俺と扉横のこの方を比べ見ると
「降られましたか」
そして未だ外套を羽織ったままのこの方へ目を遣った。
「・・・隊長」

それだけ残すと奴の黒髪が扉向こうを掠めて消える。
「あ?先生?」
てっきり部屋へ入ると思っていたのだろう。
一人扉脇に残されたこの方の、驚いたような声がした。

「柚子湯です」
直に湯気の上がる椀を載せた盆を手に、侍医が言いつつ此度は部屋へ入って来る。
胸のすくような柚子の香と共に。

「医仙が教えて下さいました。天界では風邪を得ぬよう、ビタミンとやらを取るようです。
殊に柚子には豊富に入っているとか」
「そうそう、正確にはビタミンCよ。レモンより多いんだから。抗酸化作用も高いし、クエン酸もね。
乳酸を分解するから疲労回復になるし、お風呂に入れればリモネンの効果であったまるし。
種にはペクチンが多いから、水に漬けておくだけで天然の化粧水になる」

少なくとも医に関しての博識ぶりと手腕は認めている。
だから少し黙ってはもらえぬだろうか。
侍医は滔滔と述べるこの方の言葉尻を待って声を継ぐ。

「と云うことで、典医寺でも医仙に伺って天界の柚子漬や沈菜を」
「そうよ、キムチも発酵食品だもの。腸内環境を整えるのに最適なのよ。冬にはやっぱり漬けなきゃね。
コチュはまだないけど水キムチはこの時代からあったし。別に私が作っても作らなくても、歴史を変えたりしてないはずよ」
「・・・沈菜」
「ええ。祭祀に用いるような正式なものではなく、常備菜程度です。山東菜や大根を使っております」
「そうなのよ。21世紀流でヤンニョムにはセウジョッも足したし。動物性たんぱく質で発酵を促せるし、味も良くなるのよ。
今の時代の食生活は基本的に動物性たんぱく質が足りなすぎるわ。仏教に帰依してるからって、バランスも考えないと」
「・・・はい」

好きにしろ。海老の塩漬でも柚子でも山東菜でも。
好きにして構わないから、少し黙っていて欲しい。
まして沈菜など、本来の源流は皇宮祭祀の供え物。
医仙はともかく侍医が知らぬわけでもあるまいに。
黙り込む俺に気を回したのか侍医は湯気の立つ椀を卓へ移し、その拍子に気付いたらしき桃色の包に目を当てる。
「医仙」
「ああ、歩いてたら雪が降ってきちゃったから。せっかく先生に包んでもらったし、今みんなで食べよう」
「・・・皆で、ですか」
「うん。お腹空いちゃったし、この際もう構わないわ」

一体何を言っているのか。
目前の天地の医官の交わす声が判らずに眺めると、侍医は何故か気の毒そうに俺を見つめ返した。
「遠慮しておきます。小正月ですからお二人で」

最後まで訳の判らない事を呟くと
「どうぞごゆっくり、隊長」
侍医は空盆を手に部屋を出る。
「侍医」

お前が居ろうと構わない。
何れにせよ思い出とやらの帳尻合わせに、せめて今夜は外を護ろうとしただけで。
この方が眠ったのを確かめれば兵舎に戻るつもりだった。
出て行かれては部屋に二人きり、却って厄介な事になる。

気は長くない。
終わりの見えぬ雑談に黙って付き合える程に優しくも。
天界と高麗の違いや、薬膳談義や、ばらんすとやらの話に付き合えるほど詳しくも。
俺達の間には、この方の言う思い出とやらは何もない。
何を求められているのかすら判らない。

止めていると判っておろうに、奴は一礼すると裏扉から部屋を出た。
案の定、侍医が出て行った後の部屋は静まり返り、向かい合い腰掛ける卓でこの方は気まずそうに咳払いをした。
奴が出て行った途端にこれだ。話し相手には不足なのだろう。
「・・・では」

湯気の立つ椀もそのまま、そう言って椅子から腰を上げると
「ぇえ?!」
素頓狂な声を上げ、この方が弾かれたように続いて立った。
「か、えっちゃうの?」
「いえ」

小正月。表は雪。
部屋扉を守らなければ、いつまたこの方が抜け出るか判ったものではない。
高麗が天界がとおっしゃるなら、郷愁の思いもあるだろう。
聞いて差し上げる事は出来なくとも、せめて外を護りたい。

その懐かしい故郷から攫って来た者として。
分け合う思い出はなくとも、せめて此処にいると。
済まなかったと。必ず帰すと。それまで無事に護ると。
雪だろうと嵐だろうと、どれ程強大な敵がいようと、誓いを守ると。
言葉で伝える事は不得手でも。
窓から姿が見えれば、この方も少しは安心出来るかも知れん。

「ねえチェ・ヨンさん、いえって」
「・・・表に居ります。温まったらお寝みく」
「はい?!」
「は?」
「この雪の中で、表にいるの?」
「お寝みまでは」
「だったら部屋の中にいてよ!!」

じき初更甲夜の戌の刻。
気を許さぬ男と共に雪夜の部屋に二人きり籠るには遅すぎる。
「医仙」
「何で雪が降ってるのに、わざわざ部屋を出てくわけ?そんなことされたら、心配で寝れるもんも寝れないわよ?
寝るまで外にって言うなら、一晩中部屋の中と外でにらめっこになるじゃない」
「心配無よ」
「誰をどんな風に心配するかは私が決める!」

先刻の侍医と同じように無用と言い終える間もなく叫ばれ、呆気に取られる。
言葉を終いまで聞き届けぬのは、天界の則なのだろうか。
「・・・医仙」
「ここにいてよ。せっかくの小正月なんだし。それとも1人で祝えって言うの?」
「侍医でも呼んで」
「だから誰と過ごすかは私が決めるってば!」

決めて俺だと言うのならその理由は何だ。
何故慶日に、敢えて心に添わぬ者と共になど。
首を傾げる俺に向かって、何故かこの方は懸命な表情で言い募る。
「チャン先生にお願いしたのよ。特別に薬膳を食べる日だって聞いたから、薬食も包んでもらった。
雪じゃなかったらお酒を買って、月を見ながら外で飲みたかった。私の世界では今日は特別なお酒を飲む日なの」
「クィパルギ酒・・・」
「よく覚えてるのね?」

先刻耳にした酒の名を呟くと、その瞳が瞠られる。
酒でも薬膳でも、お好きなだけ召し上がれば良い。
天界から攫った俺とではなく、気の合う朋と共に。
「わざわざこの日に薬食を食べる理由だって、きっとお正月にご馳走を食べ過ぎて疲れた胃を落ち着かせるとか、真冬に栄養をつけるとか、何か意味があると思ったのよ。
あなただって疲れてるだろうし、だから一緒に・・・」

其処まで言うと悔しげに俺を睨み、この方は大きな息を吐いた。
「雪は降るし、満月は見えないし、一緒に過ごそうってこっちから理由まで言わなきゃいけないし。何なの?普通ここまで言わせる?」
「気分が悪いでしょう」
「はい?」
「天界と違う小正月を過ごす羽目になって」
「・・・そんなこと、気にしてくれてたの?」
「はい」

それ以外の何を憂うと言うのか。
これ程天界と高麗との違いを指摘するこの方に。
しかし俺の言葉に、この方は意外なほど呆気なく首を振る。
「いい経験じゃない?体験しようと思っても誰でも出来るものでもないし、それに」
「はい」
「あなたが帰すって言ってくれたんだから、きっと帰れるよね?」
「・・・はい」

それだけは誓う。それすら果たせぬなら犬畜生にも悖る。
父上母上から頂いた名を懸けた以上、破ればその名を継ぐ価値すらなくなる。
「帰る・・・の、よ、ね」

この方は何故か思案気に呟くと、雪の舞う暗い窓外を灯向こうに透かし見る。
疑われても仕方がない。それでもそんな風に不安げに囁かれれば。
「必ず」

必ず帰す。どれ程共に居たくとも。
来年のこの方には、天界で懐かしい小正月を迎えて頂く。
窓外を見ていた小さな横顔が、何かを吹切るように勢い良く此方へ向き直る。

「じゃあ、今年はここで一緒に小正月を迎えてよ。クィパルギ酒はないけど」

共に過ごす相手が、攫った俺でも構わないのか。
思ったから確かめた。その答が俺だと言うなら。
俺の心は決まっているから、敢えて口にしない。

「はい」

余計な事には一切触れず、短く頷く。
やっと機嫌の直ったこの方の顔に微笑が浮かぶ。
その細い指が卓上の桃色の包の結び目を解いて
「すごーい!おいしそう」
はしゃいだ声が部屋中に、油灯の灯よりも明るく温かく満ちる。
「食べよう、チェ・ヨンさん!」

そう言いながら渡される小さな手の中の銀箸が、灯の中で月より輝いた。
表は雪だというのに、今年の小正月は暖かい。
俺は小さく頭を下げると、渡された箸を手に受けた。

 

*********

 

「トルベ」

隊長に許されて見張りを交代し、雪の中を駆け戻った兵舎の吹抜け。
いつもなら隊長が座る事が多い隅の段に、何故か座っているトルベ。
駆け込んだ俺にトルベが俯いていた顔を上げた。
その拍子に顔を押さえていた布が落ちる。

「お前、何してる。医仙は」
トルベは慌てたみたいに手の布を握り直すと、隠すように顔を覆い直す。
吹抜けの薄暗い蝋燭灯の中でも、奴の額に赤く腫れた瘤が見えた。
「今日は隊長がいるから帰れと言われた。それよりトルベ、その瘤は」
「煩い、黙ってろ」

俺が全てを確かめる前に、奴は言葉を被せた。
「誰にも言うなよ。良いな」
「わ、かった。大事ないのか」
「・・・ああ。問題ない。冷やせば治る」

大声を上げた拍子に痛んだか、奴は顔を顰めるともう一度しっかり布を当て直した。
「で、隊長はどうだった」
「どうって。いつも通り」
「医仙とご一緒だったか」
「ああ、うん。肩から桃色の荷を下げて、何か言い合いしながら戻って来られて・・・」

俺の報告に何故かトルベの表情が優しく緩む。
「・・・そうか」
「ああ。でもトルベ」
「何だ」
「医仙と隊長がご一緒だったって、どうして知ってるんだ」

トルベは今日、一歩も典医寺に近寄っていない。今夜の歩哨でもない。
どこで誰から隊長と医仙のことを聞いたんだろう。
不思議に思って尋ねた俺に、奴は顔色を変えて怒鳴った。
「お前は余計な事を考えなくて良いんだ!!」

そして怒鳴った拍子にずり落ちた布をもう一度当て直して、大きな息を吐いた。
そう言われたら返す言葉もない。
俺は隊長に託された伝言を副隊長に伝えようと、トルベを残して吹抜けを出る。
「おい、副隊長にも言うなよ!判ってるだろうな!」
「判ったって」

背を追い掛けて来るトルベの声に、上げた手で答えながら。

 

 

【 一服処| 正月満月 정월 대보름 】

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • トクマンの気遣いと
    侍医の大人対応と
    トルベの瘤と…
    まわりは みんなわかってる
    心配してくれてるのよね
    うまくいきますようにーって

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