一服処 | 天つ空・午刻

 

 

中天の刻。
地の影が真夏より少し長く、色が薄いのにチェ・ヨンは気付く。

こうして影を確かめるのは久々だと思い出す。
その影の映し出す己の後髪が、旋毛辺りで跳ねる。
身體髮膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也
幼い頃講義で受けた孝経の一節が、脈絡なく頭を過る。
そんな殊勝な理由で伸ばしている訳ではないのだが。

敵は思った以上に巧妙で執念深く、そして強大な力を持っていた。
何処へ逃がそうと手の届かぬ場所はなく、何より隠れるべき医仙に隠れようという気が全くない。

いつからだろうとチェ・ヨンは思い返す。
傷が元で生死を彷徨ったらしい。意識を取り戻した時、医仙は既に奇轍に奪われていた。
奪い返す口実に恋い慕う方と出任せを伝え、江華島への途で天の名を知った。

ユ・ウンス。

地に伸びる初秋の影に視線を落とし、チェ・ヨンの唇が動く。

初めてその名を呼んだのは、江華郡守の御前での親鞠の場。
その遣り取りは医仙を驚かせ怒らせるに充分だったらしい。
凌遅刑に処されると勘違いした医仙は、チェ・ヨンの脛をあらん限りの力で蹴り飛ばした。

それでもと思う。今のように無視されるよりずっと良い。

様子を見ようと訪れた典医寺で、医仙はチャン・ビンに守られながら泣き濡れていた。
初めて見る弱々しい姿に、今まで陰でどれほど耐えていたかを知った。
全て間違っていたのかもしれない。奇轍の邸にいる限り、少なくとも命を脅かされることはない。
奇轍の声に、突きつけられる無理難題に唯々諾々と従う限り。

それが問題だと、地面の影の頭が小さく左右に揺れる。
王の声すら聞かない医仙が、奇轍の声を聞くわけがない。
但し今では、その反抗的な振舞いを諫める機会もない。
徹底的に避けられている。笑顔も見せず、声すら掛けず。

まさか思わなかった。
騒がしく明るい声だけで見つけられた医仙。
眸を上げれば紅い髪だけで見つけられた医仙。
出逢いの経緯。一連の騒動。好かれていないだろうと見当はついたが、これほど手厳しく避けられるとは。

避けられて当然だと思う。そして当然なのに淋しいと。
そこまで考え地面の影の頭が先刻よりも大きく揺れる。
淋しいわけがないと言いたいか、そんな資格はないと言いたいか。

けれどどれほど打ち消そうと、一度芽生えた淋しさは、中天の陽が刻むのと同じほど正確にチェ・ヨンの心に影を落としていた。

 

ウンスは皇宮の庭の端、池に掛かる橋の欄干に寄り掛かって青い空を見上げていた。

現代人の感覚では到底理解できない。
あんな風に超能力とも思えるような火の玉や笛の音を操るのも、余りに呆気なく人間を殺すのも。

現代人と思いつき自分の思考回路に苦笑する。もう笑うしかない。
それを言うなら自分こそが現代人ではなかった。今、ここは高麗。
国史で勉強した恭愍王や魯国公主や、大将軍チェ・ヨンがいる。
現代人と呼ばれるのは彼らで、ウンスは紛れ込んだ異次元生物。

初対面の時には、本当にサイコだと思った。
患者の病態を説明しオペのテクニックを確かめるために、居合わせた人間をいきなり切りつければそう思っても当然だろう。

今までに読んだどんなSF小説より、今までに観たどんなTVドラマより馬鹿げた設定。
そのサイコが切りつけた患者をオペし、誘拐されて奉恩寺から着いたところが高麗だなんて。
皇宮の部屋の中の調度品。陶器類はかの有名な高麗青磁。
恭愍王の有名な「天山大猟図」をこの目で見る日も近いだろう。
そこまで考えると、現実離れした今の境遇にもう笑うしかない。

いや、これこそが現実なのだ。呆気なく人間が殺される世界。
生と死はいつでも密接に隣り合わせで、西洋医学の知識しかないウンスの医術など人々が思う以上に役に立たない。

あの時のチェ・ヨンの瞳と声が不意に蘇る。慶昌君が服毒した時。
医官だろう、どうにかしろ。
怒鳴った声、解毒の方法が判らないと伝えた時の愕然とした視線。
あの声が現実。為す術もなかったのが事実。
チェ・ヨンが敗血症から回復し、生きてくれたことが奇跡だった。

それでも。

顔を上げ空を仰いだまま目を閉じても、降り注ぐ陽射しで瞼の裏まで明るい。

それでも守りたいとウンスは思う。

守りたいのだ。チェ・ヨンという男を。
そして守るためには、自分が離れるしかないのだと。
キチョルがどれほど執念深いか知った。手下まで使い、自分を攫い、周囲の人間を殺して示したのだ。
言う事を聞かないなら次にこうなるのは王妃か、チャン・ビンか、チェ・ヨンかのうち、ウンスが最も大切に思う人間だと。
そしてキチョルの手先の火を操るXwomanと笛を操る男は知った。それがチェ・ヨンであることを。

だから距離を置くしかない。言葉で、態度で言うしかない。
あなたなんて知らないと。あなたなど大切な人ではないと。
人生の中で取るに足らない、擦れ違うだけの存在なのだと。

大嫌いだ。泣くのも落ち込むのも、つまらないことを考えるのも。
何より嫌なのは、納得できない相手から検討する価値もない馬鹿げた命令を強要されるこの現実。

どうにかこのゲームを逆転する手段はないか。
検討するならそちらの方が、ずっと建設的だ。

自分は情報を持っている。あのキチョルが欲しがるもの。
すぐ殺されることはないだろう、少なくともジョーカーを持つ限り。
そして持ち続ければ大敗する可能性もあるカード。
それを使って勝てるうちに、チェ・ヨンを救う方法を考えなければ。

ウンスは顎を上げて空に顔を向け、目を閉じて風に髪を遊ばせながらディールの方法を模索していた。

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • 打ち合わせ出来てればね
    信じるしかない人に
    裏切られたーって 思っちゃう。
    でも、嫌いになれないのよねー

  • ヨンアは言わなくとも察しろか考えを読めか…ウンスは先の世界の天人で医仙で状況が状況だから考える思考がね(^^;ヨンアはウンスに分かりやすく簡単に話出来たらしとかなきゃね…人それぞれの頭の回転の違いね(^^;おばちゃんも頭の回転悪いから分からないで墓穴掘るかも(´д`|||)

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