一服処｜天つ空・未刻

チェ・ヨンはウンスと並び、静かな足取りで皇庭の隅を歩いた。
剪定された木々の枝から、美しく色づいた葉が降って来る中を。

いつまでこうして歩けるのだろうと、上衣の袖に隠れて隣の小さな手を探す。
指先が触れ合うとウンスは視線を上げ、チェ・ヨンの黒い瞳に微笑み返した。

懼れていた熱がないのに安堵して、大きな掌が護るように小さな手をそっと握り込む。
いつまでこうして笑い合えるのだろう。
いつまでこうして本心を隠し、穏やかな素振りが出来るだろう。

自分の波立つ感情など、どうでも良いと思う。
ただウンスが穏やかに体を労わり、心を乱すことなく天界へ戻るまで日々が過ごせれば。
心も体も護りたい。ただ共に、離れずに、別れるまでの日々を過ごしたい。

まだ夕陽には早い、秋の陽が一番美しい時刻。
眸に映る景色が淡く優しい光に透け、照らされる午後。
今のこの瞬間に止まってしまえば良いと願う。
皇庭の陽射しも、舞い落ちる赤い葉も、薄い秋空を流れる雲も。
そしてウンスの体の中を巡っている、忌まわしい徳興君の毒も。

止まってしまえば進まない代わりに、今より悪くなることもない。
休むことなく走り続けて来た。行く手を阻む者は全て斬って来た。
命を奪い続けた罪を今清算しているのだろうか。震える手と共に。

チェ・ヨンは静かに息を吐き、浮かびそうな汗を抑え込む。
自分が辛い分には構わない。いくらでも背負う事が出来る。
但しその罪を己より大切な者の命で清算されるのは、死より辛い。
今この手が震えれば、そのまま小さな手に伝わるだろう。
伝わればこの温かく柔らかな手の主の心を痛めてしまう。

横を歩くウンスの気配を感じつつ、肚裡の気を整え直す。
穏やかに戻る呼吸にウンスが再びチェ・ヨンを見上げる。

陽に透かされた紅葉の雨は、二人の頭上から降り続ける。
止むことを知らぬ慈雨だと、舞い散る落葉を眺めて想う。

己の眸に映る赤は、常に死に纏わっていた。
敵の血。朋の血。家族にも等しい者らの血。
だがウンスが見る赤はきっと命の赤だろう。

天界で攫った日、二度の手術に立ち会う姿を見た。
一度目は天界で、二度目は高麗で。
ウンスは患者の傷口から流れる血に染まり、命に向き合っていた。
己が気付くより前のあの時、既に心は動いていた。
命を斬り捨てる事しか知らなかったチェ・ヨンが、初めて見つけた救いの手。
断ち切るために動くのではなく、繋ごうと尽力する小さな手を見つけた時に。

誰より輝いて生きるウンスに死の赤は似合わない。
その瞳に映る赤はいつでも命の赤であって欲しい。
指先だけを触れ合わせたまま、チェ・ヨンは秋空へ眸を上げる。
まるでその高みに天界が見つけられそうな、澄み切った青い空。
この先永久に離れても空を見上げ、天界の姿を想えば慰めを見出せるだろうか。

自分はどうなっても構わないと心から思う。
ただウンスには生きていて欲しい。生きてさえいてくれれば良い。
二度と逢えなくとも、見上げる空に描くだろう。
夕陽を見るたび、そっくりな彩の紅い髪を。
三日月を見るたび、そっくりな形の笑う瞳を。
跳ねる陽射しの中に、ウンスの命の輝きを。
降り頻る雨の中に、眩しいほど明るい声を。

ぽつんと落ちて来て、あれ？って。

きっと雨が降り出すたび思い出すだろう。
人生に温かく降り注いだ束の間の慈雨を。
それを教えてくれただけで充分だと思う。
だからチェ・ヨンはウンスと二人、ゆっくりと皇庭を歩く。
次に降る雨が思い出させてくれる記憶の中の風景を、ほんの少しでも増やしたいと。

そして秋の空の下、初めて思い知る。
今までどれほど傲慢に人生を無駄にしていたか。
命とは好きに扱って許されるものではなかった。
勝手な望み通り容易に終わるものではなかった。
誰かに生きて欲しいと望むなら、己が死なずに守ることだと。
その相手を失えば、心の臓が動いていても死んだも同然だと。
誰より命の大切さを知るウンスが、こうして教え続けている。
その笑顔で、無言の瞳でチェ・ヨンに教えている。

生きると言っている。
自分の為でなく、自分より大切な者を守る為に。

そんな大切な相手を失えば生きていけないと思う。
息はしても、心の臓は打っても、命より大切な者を失えば。
何故自分はいつも気付くのが遅いのだろう。
何故最も大切な答を土壇場で知るのだろう。

何故。

紅い落葉の雨の中、チェ・ヨンは唇を噛み締める。