一服処 | 天泣・後篇(終)

 

 

夢でも熱は伝わるだろうか。香を感じられるのだろうか。
あなたの纏う見慣れぬ衣。その奥の奥で烈しく打つ鼓動。
腕の中の軋む小さな体。寄せた頬を擽る柔らかな纏め髪。

これが夢だと言われるなら、もう起きなくても構わない。
あなたと共に居られれば、夢でも現でも何の違いもない。
「・・・イムジャ」

抱き竦めて消えぬのなら、呼んでも消えぬだろうか。
ようやく思い出した息を吐き、恐る恐る呼んでみる。
呼んでから思い出す。息もつけぬ程きつく抱き締めていたと。

廻した腕をほんの少し緩める。あなたが温かい息継ぎをする。
鼻先を掠める息に肌が粟立つ。腕の中を確かめる視界が霞む。

こんなにも生きている。熱も香も、息も鼓動も交わし合って。
髪を撫でてみる。細い項に触れてみる。
瞬く睫毛の先に触れ、輪郭を確かめるように頬を両掌で包む。
零れる涙を拭う。指を伝う雫は暖かい。
あなたは指が触れるに任せ、穏やかにこの眸を見詰めている。
「イムジャ」

呼べば掌の中、包んだ頬が上下に頷いてくれる。
それでも心の片隅に、何処か冷静な囁きがある。
今こうして逢えるはずがない。現れるわけがない。
必ず帰って来る。知っている、そして信じている。
だがそれは今ではなく、そして此処でもないと。

騒ぎを起こさず野営地の扉を破るのも、歩哨の目を盗み此処まで辿り着くのも、樹上のテマンがこの方を見逃す事も有り得ない。
その全てを掻い潜り、天幕の布扉の内に現れるなど不可能。
ただこれだけは尋ねずにいられない。
「俺が、呼びましたか」

死に引き摺られまいと、この方を。誰よりも輝く生の強さと烈しさを。
この方に助けて欲しいと願ったのではないか。
逢いたい、あなたの無事を知りたい、生きていると判れば待てる。
そしてあなたはその声に、何処かで応えて下さったのではないか。

答は返らない。ただあなたは腕の中で微笑んだ。
何処までも透き通り心に染み入る、そして優しく力強く輝く、それはあなたの命そのものが放つ笑みだった。

 

喉が渇いて目が覚めた。
当然よね、ご飯も食べずにそのまま眠り込んだんだし。
寝台の上で目を開けてそんな事をぼぅっと考えた瞬間。

真っ暗い部屋の片隅、そこに立ってる人影にぎょっとする。

慌ててもう一度目を閉じる。寝たフリが通じるかも分からないけど。
心臓の音がうるさいくらい鼓膜を震わせる。頭がガンガンする。
嘘でしょ?
この古い庵は、扉を開け閉めするたびかなり大きな音がする。
それにも気づかないくらいぐっすり眠り込んでたんだろうか。

こんな世界で、誰だか分らない侵入者に出くわすなんて。
死ぬわけにはいかない。絶対無事で帰らなきゃならない。
あの人に逢うために。きっと待っててくれるはずだから。
お願い、守ってね。こんな時こそ、得意の三歩で守って。

部屋の暗闇。窓の外から響く、相変わらずの雨の音。
いつもなら頼りないと思う月明かりが、今は恋しい。

ああ、もうこの際強盗の方がいい。
金目の物なんて何もないけど、何を持ってっても文句言わないわ。
さっさと物色して、好きなものを持って出て行ってくれればいい。
暗闇より黒い影が動く気配も、物音も、全くしない。
目を開けて顔を見るのも、相手に見つかるのも怖い。
だけど目を閉じて、相手の動きが見えないのも怖い。

折衷案で出来るだけ動かずに目だけ細く開けて、暗闇をもう一度確かめた時。
頭で何かを考えるより早く、体が勝手に寝台の上で飛び起きる。

部屋の暗闇から、寝台の私をまっすぐ見てる黒い瞳。

心臓がさっきと違う音で鳴り始める。見間違えるわけがない。
暗闇の部屋に浮かぶ灰色の鎧。その肩の線。
低い天井に届きそうなくらい背の高い立ち姿。
そしてあなたも同じくらい驚いてるんだろう。
涙が出るほど懐かしい黒い瞳が丸くなってる。

「・・・・・・・・・イ」
呟いた低い声のかけら。どんなに強くても雨なんかで消せない。
聞き間違えようもない、もう一度呼ばれる日を待ってる大切な声。
「・・・・・・・・・え?」

暗闇の中で大きく目を開く。
こうして見ても信じられない。どうして?
三歩の距離に。そうでなければ守れない。
そう言ったあなたは、本当にいつでも3歩の距離にいてくれるの?

飛び起きたまま寝台の上から動けない私。
部屋の隅からこっちを見たままのあなた。

次の瞬間の動きは、珍しく私の方が早かった。
あなたの言ってる3歩の距離、私には倍くらいかかったけど。
飛び降りた寝台から5、6歩走って、抱きしめようと伸ばした腕が優しく掴まれてそのまま引かれる。

頬に当たる鎧の金具。労わるように髪を撫でる手の平。
暗闇の中、光源もないのに黒く濡れて降って来る視線。
その瞳の形。鼻の線。顎の輪郭。

あなたの胸の中で息をついて、最初に頬へ触れる。
次に首。そして最後に私に回されてる腕の手首へ。
大丈夫。こうして脈を感じる。
あなたは生きてる。生きててくれる。
私の指先を確かに打つ心臓の鼓動が教えてくれる。
思い切り抱きしめ返して、固い鎧の胸に精一杯耳を当てる。
ああ、心音が聞こえればもっと安心できるのに。

「私は、ここよ」

鎧の胸に耳を当てたまま囁くと、あなたが頷いた。
「ここよ。必ず帰る。だから」
触診じゃない。ただ恋しくてもう一度指が伸びる。あなたの温かい頬に、そして
「待ってて」
揺れる黒い瞳に滲む涙を拭く。
「どこにも行かないで」
乾いてヒビ割れた唇をなぞる。
「必ずよ。それまで、お願いだから」

どれほど温かくても、こうして触れられても、だけど。
だけどきっとまだ、私たちの間には戻るべき道がある。
自分の力で、自分の意志で選んで超えるべき壁がある。

「すぐに逢えるわ。今度は私が誓う。約束する。私の、ユ・ウンスの誇りと名前を懸けるから」

心の底からお願いする。全てを懸けて祈る。叫ぶみたいに呼び続ける。
そして悲しい雨の中、同じようにどこかで私を呼んでくれたあなたに。

「生きて」

答えは返って来ない。でも気にしない。
だって今、あなたは笑ってくれたから。
涙を浮かべた黒い瞳が私を見て、確かに頷いてくれたから。
あなたが誓ってくれれば大丈夫。私が誰より知ってるから。

「ありがとう」

その瞳に、笑ってくれたことに、頷いてくれたことに。
こうして、雨の中をここまで逢いに来てくれたことに。

お礼を伝えて大きく息を吸う。目を閉じてそれを吐く。
そして次に目を開けた時。

 

天幕には俺一人だった。消し忘れた蝋燭が揺れていた。

腕の中に温かさが残り、天幕中に花の香が漂っていた。
そして心の中に、忘れられない眩しさが刻まれていた。

きっとあなたは言って下さった。
あの日、俺に天界の薬瓶を渡して下さった時のように。

背負うのは己の奪った命だけではない。
守れなかった命、そして護りたい命。
取り返しのつかぬ過ちに雨の中で詫び、そして歩み続ける。
繰り返さぬと覚悟を抱いて、正しいと信じる道を真直ぐに。

いつでもあなたが共に居る。
心の中に、瞼の裏に、眸に映る生きとし生ける総てと共に。
そうして待てば再び逢える。今宵の偶然の邂逅のように。

それまでは見つけるだろう。共に戦場に立つ全ての朋の中に。
足許に咲く一輪の小菊に。空を往く一羽の鳥に。吹き抜ける一陣の風に。
今はまた暫し離れたあなたと同じ、強く眩しい命の力を。

そして再び逢えた時、本当のあなたを抱き締めて言うだろう。
戻ると知っていた。逢えると信じていた。いつも共に居たと。

そしてあなたは今宵のように、微笑みながら泣くだろう。
この世に二つとない、貴い命そのものが放つ輝きと共に。

天幕を打つ雨脚は弱まらない。きっと今宵は止まずに降り続ける。
外の樹上のテマンの気配。身動ぎと共に若葉の抱いた雨粒が落ちる。
それに気付かぬようではまだだ。明日からまた鍛えねばならん。

巡回の歩哨の雨中の足音。そんなに響いては居場所を伝えるも同然。
足音を消すのは兵の基本。今更鍛錬を付けるまでもなかろうに。

それでも鍛える。それがいつか何処かで奴らの命を救うと信じて。
何故ならきっとあなたなら言うだろうから。

生きて。

そして俺も、俺の周囲の奴らも、誰一人逆らう事は出来ない。
あの命そのものの声に。誰もが心から聞きたいと望む一言に。

死なないで。

誰かが心から言ってくれるその一言が、命を繋ぐことがある。
だから俺は言うだろう。あの方が俺に言って下さるように。
死ぬな。生きろ。俺の為ではない、愛しき者の為に。
お前が先に逝けば道に迷って泣きながら再会を待つ者の為に。
そして再び逢った時、胸を張り堂々と言えるように。

あなたの為に、生きました。

花の香の漂う天幕の中、腕に残る温かさを忘れぬうちに。
少しだけ眠ろうと、ようやく思い出した蝋燭を吹き消す。

暗く沈んだ天幕で、寝台に戻ると横たわり眸を閉じる。
どれだけ烈しくとも止まぬ雨はなく、どれほど暗くとも明けぬ夜もない。
逝った朋を忘れることはなく、そんな朋を増やさぬようにと力を尽くす。

だから今は寝台の上、独りきりで眸を閉じる。
こんな情けない姿を見せるのは此度だけだと。
そうでなくば俺の心配ばかりするあの方の胸を痛ませる。
今は土の中の奴らも、安らかに眠る気にはなれぬだろう。

信じたことを後悔させたくない。絶対に裏切りたくない。
いつか何処かで再びの邂逅を迎えた日、互いに無言で笑い合い頷き合いたい。

その為に今宵だけ、後悔の雨音の中で眠りにつく。
この雨の所為で葬頭河が荒れぬように祈りながら。

安らかに渡れ。そして其処で待っていてくれ。
いつかもう一度此岸の倦みを忘れ、何の憂いもなく笑い合う為に。

 

 

【 一服処 | 天泣 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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3 件のコメント

  • 雨は、天が泣いているんですね。
    心の中の確かなものを信じて歩いて、いつか現実になりますように。

  • にわかに信じがたいことだけど
    時空も越えて 思いが通じた
    次は ほんとに 会えますように。

  • ウンスとヨンアの気持ちが一つに交わると起きる温もりある幻…二人だから起きた奇跡よね(*^^*)凄い…Σ(゜Д゜)

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