ほうほう、また風が増えておる。
ちょっとした騒ぎになりそうじゃ。
チェ・ヨンに載せた胸の札を取り上げ、その枕元の蝋燭の灯に取り上げた札を燃べて焚き上げる。
札は一片の紙も残さず、白い灰となった。
そして燃え尽きると同時に、横たわるチェ・ヨンがゆっくりと目を開いた。
開けた目で薄暗い洞の中を見回しこちらへ視線を当て。
次の瞬間急に身じろぎ、布団を飛び出そうとしたチェ・ヨンを静かに諌める。
「まだ動いてはならん」
その声に諦めたよう、チェ・ヨンが動きを止めた。
そうか、それ程に駆けて行きたいか。
「目が覚めたかのぉ」
「・・・はい」
「ぐっすり眠っておったぞ。起きられるか」
煎じておいた薬湯の碗を引き寄せながら、チェ・ヨンへとそう問いかける。
「あなたは」
こちらの身形に目を遣りながら、半身をゆっくり起こしチェ・ヨンが尋ねた。
「見た通り、道士じゃ」
「道士様」
チェ・ヨンは布団の上に起こした半身から、頭を深く下げた。
「助けて頂き、ありがとうございました」
「何の何の、功行両全じゃて。で、チェ・ヨンや」
「はい」
「お主学んでみぬか、道教を」
「・・・は?」
その声に微笑みながら
「これほどの気を持つ男、長い修行でも会うたことがない。
お主が内丹術を会得したらと思うだけで胸が躍るわい。どうじゃどうじゃ、弟子にならぬか」
重ねてそう問うこの声に、チェ・ヨンはきっぱり首を振る。
「某には過分なお申出です」
「嫌か!」
何と正直な若者かと、大きな笑みが浮かぶ。
「儂はこれでも、長春真人の曾孫弟子なんじゃがのう」
首を振り振りそう告げて、その手の中に碗を渡す。
「まあ良い。チェ・ヨン、これをお飲み」
チェ・ヨンは素直に碗の薬湯を飲み干し、息をつくともう一度丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました。もう行かねば」
「さてさて、それはどうかのう」
その声に、チェ・ヨンは布団の上で姿勢を正した。
目が開くと見慣れぬ洞で横になっていた。
傍で男が一人、此方を見つめていた。
薄暗い洞の中、岩肌の割目から筋になり差し込む細く白い太陽の光。
布団に横たわる自分、覗き込む白い髭の老人。
見知らぬ者がこれほど近くにいる中で、俺が前後不覚に昏々と眠り込むなどあり得ぬ。
ここは何処だ。何があった。
何があった、と思い返した刹那。
俺は布団を跳ね除け立ち上がろうとして、体中が悲鳴を上げた。
「まだ動いてはならん」
目の前の老師と思しき風体の方に声をかけられ、動かぬこの体に諦めて息を吐く。
あの方は。あの方は何処だ。
何処に連れて行かれた。
「目が覚めたかのぉ」
「・・・はい」
「ぐっすり眠っておったぞ。起きられるか」
起きねばならん。起きて探しに行ってやらねば。
どうにかゆっくり体を起こしながら、
「あなたは」
目の前の白髭の老師へ問いかける。
この目を覚ますことなくこれほど近くに寄る老師。一体どなたなのだ。
「見た通り、道士じゃ」
「道士様」
道教の出家道士ということか。それなら合点がいく。
気配を消すことも、そしてこの洞におられることも。
その言葉に頷くと、俺は頭を下げた。
「助けて頂き、ありがとうございました」
「何の何の、功行両全じゃて。で、チェ・ヨンや」
「はい」
「お主学んでみぬか、道教を」
「・・・は?」
痛む体、寝起きの頭、それでもどうにか聞き取ったその突拍子もない提案に驚き、老師を見つめる。
「これほどの気を持つ男、長い修行でも会うたことがない。
お主が内丹術を会得したらと思うだけで胸が躍るわい。どうじゃどうじゃ、弟子にならぬか」
「某には過分なお申出です」
「嫌か!」
その断りに却って嬉しげに、目の前の老師が笑う。
「儂はこれでも、長春真人の曾孫弟子なんじゃがのう」
全真教の七真人筆頭の名を誇らしげに挙げながら、
「まあ良い、チェ・ヨン、これをお飲み」
老師は碗を差し出した。
その碗を受け、一息に飲み干し
「ありがとうございました。もう行かねば」
そうだけ告げると、
「さてさて、それはどうかのう」
老師は目を細め、静かに首を振った。
「老師様にはご恩を受けました。しかし行くところが」
「チェ・ヨンや」
「・・・はい」
「お主、どなたをあれ程護ろうとしていたのじゃ」
老師の問いかけに声を失う。
「それは」
「その方も何故あれ程、強い思いを残して去ったのじゃ」
「老師様」
俺の掠れ声に老師がゆっくりと此方へ目を当てる。
「暫しの別れじゃ、案ずるな」
別れ、穏やかにそう仰る声が胸に突き刺さる。
「どういう事ですか」
「お主には雨も、風も従いている。心配するな」
「あの方は何処ですか」
「さあ、どう答えてやれば良いかのう」
「お答えください、何をご存知ですか」
老師はその声には答えず腰を上げると洞の奥へ進み、すぐに鬼剣を手に戻ってきた。
そして俺に握っていた鬼剣を渡しながら
「この刃もお主の事だけは絶対に傷つけぬ。その命を守りたいと切に願っておる」
老師の似ても似つかぬ柔和な表情の向こうに、隊長の幻を見る。
隊長。そうなのですか。今でもそう思ってくれるのですか。
あの頃俺たちの父であり、兄であり続けたように。
老師の言葉に、俺は深く頷いた。
俺を笑んで見遣った老師は続いてその懐から信じられないものを取り出し、この掌の上へそっと落とした。
その瞬間薄暗い洞の中、俺は鈍く光る掌の中の宝を穴が開くほどじっと見詰めた。
岩肌から細く差し込む光に浮かび上がる、懐かしいその小さな瓶を。
「老師様」
言葉が出ない。続かない。何故今、此処にこんなものが。
いや違う。あれとは違う。
あの時俺は瓶の中の最後の二粒を噛み砕き、あの方へと口移しにした。
あの瓶にこれ程多くの薬粒が残っているわけがない。
あの時の黄色い花も入っていない。
なのに何故これが、この真新しい天界の薬瓶がここにある。
「お主の倒れていた近く。土に半分埋まっておった。雨に流されて出てきたのだろう。
見たことのないものだったからな。一緒に持ってきた」
俺は黙って、固く目を閉じた。
あなたが何処かにいたのか。また救おうとしてくれたのか。
不思議な天界の、正確なその預言の力で。
徳興君の罠を見破り、王妃媽媽を、王様をお救いしたあの時のように。
何度も何度もそうして戻り、どうにか救おうとしているのか。
ならばいつか必ず逢える。あなたは必ず戻ってくる。
この眸でもう一度確かにあなたを見つめるまで、俺は必ず此処で待つ。
そう思い、再び眸を開く。
「待っていてやるが良い」
老師は穏やかな目で俺を眺めた。
「その気になれば断ち切れる、知らぬ者はそう申す。
居らぬものを待っても無駄だ、判らぬ者はそう申す。
人生の中で本物の運命に会える者ばかりとは限らん。
知らぬ者こそ、憐れなのだぞ。
運命ならば断ち切れぬ。待てるからこそ縁なのじゃ。
そして真の縁を結ぶのは、ひたすら強き想いだけ」
「・・・はい」
「今のお主のままで良い。願ってやれ、帰って来いと。思い出してやれ、全ての事を。
その切実な願いと思い出こそが、二人を再び結ぶのじゃ」
「・・・はい」
あの暖かい雨も、そして薬瓶も。
俺のためにだけ泣き、笑い、怒り、命まで懸ける方だから。
おらねば探す。探して見つからねば待つ。
待って来ぬなら、来るまで待ち続ける。
それしかできない、今の俺には。
あの方がこうして残す足跡を、何処まででも追いかける。
追いかけた先にあの姿が見えるまで。声が聞こえるまで。
イムジャ。
どんな言葉にも縋る。どれほど小さな足跡にでも。
それであなたが帰るというなら、一日に千回でも思い出す。
あの笑顔を、瞳を、髪を、声を。 指を、息を、涙を、あなたの全てを。
万回でも願う。俺は此処にいる。此処にいるから、早く帰って来い。
「知っておるか」
老師の言葉に、ふと我に返り顔を上げる。
「雲従龍、風従虎という」
「易経ですね」
その返答に老師が相好を崩す。
「さすがよのう。ますます弟子に欲しいわい」
そしてようやくその表情を改めると
「お主には、風が従いておる」
「風、ですか」
「そうじゃ、風じゃ。
龍が雲を従え虎が風を従えるよう、天子に徳のある処必ず賢臣が現れ、互いの能力を発揮する。
同じ気持ちを持った者は自ずと惹かれあい、行動を共にするようになるものじゃ」
そう言って、ふと洞の入口へとその目を向け
「もう少し待っておれ、風が吹いてくる」
愉快そうに笑うその顔に、意味の分からぬ俺は息を吐いた。
さすが老師様、問答はお得意らしい。

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
コメントを残す