行雲流水 | 2015 summer request・入道雲

 

 

【 行雲流水 】

 

真青な夏空。
何処までも高く涯なく、抜ける程に青い空。

真白な夏雲。
手で掴めそうなほどの、大きな天の入道雲。

遮るものもない緑一面の草原に、その白い雲の大きな影が落ちる。
その影の中に立ち覆い被さる大きな雲を見上げ、静かに息を吐く。

夏の雲の影の中、自分の呼吸だけが響く。

早く。一日も、早く。

「隊長!」
テマンが草を揺らして駆けてくる。
「刻か」
「はい!」

駆け寄り頷いたテマンに眸で頷き返すと、彼は黙って雲の影から抜け、草原を歩き出す。
あと一駆け、すぐそこに最後の役目が待っている。
それさえ無事に終わらせれば、すぐに幕を引ける。
幕引きが終われば、後の事など知った事か。

思いながら彼は体を洗い終え、たっぷり川の水を飲ませ、草原の下草をたらふく腹に詰め込んだ愛馬へと軽々と鐙を踏んで飛び乗った。
周囲を固める迂達赤もそれぞれ騎乗し、自分の声を待っている。

「あと二刻半。遅れるな」
「は!」
返る廿余名の声を聞き、彼は顎で頷くと、愛馬の腹を踵で蹴った。

走りだした愛馬の背、全てが後へ流れていく。
草原の緑の草も、天の蒼さも、白い入道雲も。

これさえ終えればあの入道雲ほど自由になれる。
好きな時に、好きに空を流れていける。
その後に何が起ころうが、知った事か。

愛馬の背の上、風に逆らって真直ぐ背を起こし、彼は胸の裡でそれだけを幾度も呟いた。

知った事か。

 

国境元側、禿魯花として仕えていた元の宮、初めて対面する新しき駙馬高麗国王は少年の面影すら残したような細い線をしていた。
その横、凛々しく真直ぐに首を伸ばす年若い王の后、元の姫君は何の表情も浮かべず、目前に整列した廿余名の迂達赤を見遣った。

入道雲の浮かぶ夏空を切り取る、胡風の細工を凝らした格子窓。
嵌めたその窓枠の外では、緑の木立の中から蝉声が響いている。

夏というのは国境を超えようと、何処であれ同じという事か。
彼は通された部屋の中、鮮やかな吉祥雲の腰壁を見詰める。目の前に立つ王になど一切の興味は言わんとばかりに。

「そなたらが、高麗よりの迎えの者たちか」
新王より声が掛かって初めて
「は」
彼を先頭に隊列を組んだ迂達赤たちは新王の目前、鎧姿で一斉に床へと膝をつき頭を下げた。
その横で同じく迎えの隊に随行する典医寺のチャン・ビン、そして医官と薬員らも深く頭を下げる。

「遠路ご苦労であった」
「すぐに出立致します」

長話など真平だ。
彼は新王の言葉が切れた瞬間、最低限の言葉のみ、最小限の声で告げた。

己の労いに言葉に礼すら返さず畏まる事も無く、横に佇む后とは名ばかりの女人に負けぬ程冷淡な眸で、心の籠らぬ声で言う迂達赤隊長を王はじっと見つめた。
何処へ行こうと、歓迎はされぬという事か。

しかしこの迂達赤隊長、王を守るべき立場の最高峰にあるはずの初対面の男から、敵意にも似た大きな嫌悪感しか感じ取れぬのは己の気の所為なのだろうか。
厄介者扱いは、何処も変わらぬという事か。

それでも帰るべき場所は故郷の国。
治めるべき地、果たすべき天命は其処に在るのだと、下を向きそうな心を叱咤し、若き新高麗王は目の前の黒い虎の眸を持つ歴戦の将に向かい合った。

目を合わせようと、それが変わるわけではない。
迂達赤隊長の彼は表情も、眸の色も変えないまま、黙って目前の新王を見詰めた。
まるで路傍の石のよう、水に落ちた一葉のように。

迂達赤の警護に護られ、元の宮を出て七日余り。
夏の陽の照る間は馬車に揺られて動き、夜になれば目立たぬように質素な宿に身を潜め、新王は高麗への国境へと差し掛かる。

この七日余り口を開くとすれば、相手は禿魯花時代から傍に侍った内官のアン・ドチか、自らを腹心と名乗るチョ・イルシンか。
それとて多くの言葉を交わすではない。高麗への帰国後の立場に不安を禁じ得ぬのは同じ心持ちだろう。
己が天子として正当な立場かどうかは、この際問題ではない。
既に奇皇后を輩出し高麗の皇宮に絶大な権力を振るっていると聞く、そして此度自分を王に担ぎ上げた徳成府院君 奇轍がいる。

此度の己の突然の即位とはその奇轍の気分次第、風向き次第でこの王座がすぐに召し上げられる、そういう意味なのだ。

実際には何の地位も持たぬ、正当な権力も持たぬ、ただ貢女として元へ召し上げられた妹を裏から皇后へ祀り上げた実績。
怖ろしいばかりの顕示欲と、そして政を操る野心と手腕を持つ、地方の無名の貧乏貴族出身の男の一存で。

連れ帰る元の女人、魏王女魯国大長公主 宝塔失里など、夜に休む寝室を分け、傍にも寄せ付けず、昼の馬車を分けてもまだ足りぬ。
出来る事であれば永遠に遠ざけ、この目に映らぬ場所にいて欲しい。
見るたびにその冷淡な瞳に心を乱され、聞くたびにその想いの欠片も籠らぬ声に腹を立てるのにはうんざりする。

真夏というのに元の衣装を隙無く身に纏い、汗一つ浮かべる事も無く、細い首を折る事も曲げる事も知らぬげに真直ぐ擡げた姿。
何の感情もない、前だけを睥睨するそんな情のない姫君を見るたび、駙馬として未だ元に仕える気分でいるなど。
一国の王となる己がそんな気分でいるなど、あってはならぬ。
夏の夜の宿の部屋、独りきりで寝台の上、若き新王は自嘲の息を吐く。

つまり己の周囲は敵だらけという事だ。内官アン・ドチを除いては。
元であろうと高麗であろうと、何処へ行こうと変わらぬという事だ。

己のその息に、部屋の隅でふと動くものを見る。
いや、違ったと新王は思い直す。

この男がいた。

相変わらず腹積もりが読めない。黒い虎の眸を変える事も、嫌悪の表情を変える事もない、若い迂達赤隊長。
昼も夜も己の声を待つでもなければ声を掛けるでもない、但し影のように添い、周囲を守るこの男。

夜になれば無言で己の部屋へと入り部屋の扉を守り、朝になれば無言で己の部屋を出で、またこの身を守り国境を目指す男。
寝ておるのかとこちらが寝台の上で息を潜めた瞬間、腰を下ろした床の上で抱えた剣を握り直し、その黒い眸を開くこの男。
そしてその眸を寝台の己に投げこちらの無事を確かめると、また興味なさげに眸を逸らし、そのまま瞼を閉じる迂達赤隊長。

この男の視線とは即ち、己に向けられる民の視線という事か。
若き王は、その男の様子を見て初めて逡巡する。

興味があるわけではない。しかし礼は失さない。それはそうだ、曲がりなりにも己は天命を授かった王である故に。
ただし忠誠を誓うではない。心を渡すでもない。それはそうだ、己を知るわけでも、この胸中を知るでもない故に。
それがこれから待つ、十余年振りに戻る故郷、高麗で己を待つ民の総意、民の視線というわけか。

何処へ行こうと変わらない、己は理解される事はない。
実の母も含め、愛される事も、待たれている事もない。

寝台の上、再び小さな息を吐く己に、此度はその男は黒い虎の眸を向ける事もしなかった。

寝台の上の新王の吐息に反応するのも飽いた。
それ程悩みが多いのであれば、王という立場も楽ではないのだろう。
尤も楽に熟していた者などあの忠恵以外には見たことはないと、其処まで考えた彼は、胸の裡で首を振る。

感じるべきは、この部屋へ近寄る不審な気配。
考えるべきは、如何に高麗への国境を素早く安全に超えるか。

一日も早くこの役目を終え、あの入道雲のように流れたい。

しかし、と彼は思い直す。

今日の移動中、南の空に大きく広がっていた雨雲。
明日は朝より雨に見舞われるかもしれぬと、己の心にも雲が広がる。
雨が降れば近寄る足音は消される。逃げた足跡を追うのも困難になる。
その気配が漂うほどの大人数で攻め込まれれば、廿余名での応戦は些か面倒になるだろう。

知った事か。来るなら来い。攻められれば守るまで。
彼は鬼剣をもう一度抱き直し、壁に凭れて眸を閉じる。

早く。一日も、早く。

 

「今夜も熱帯夜になりそうね」
彼女はそう言いながら、ナースステーションの扉を開ける。
「異常気象なの?ここんとこ、やたらニュースでも太陽の黒点が何ちゃら、とか言ってるし」

彼女の声に、居合わせた同僚の医者や看護師たちが頷いた。
「ユ先生、どうします?今晩暑気払いに、みんなでビアガーデンに行こうかって言ってるんですけど。学会前にたまには息抜きに」
キム看護師長が、ナースステーションへ入って来た彼女へ問う。彼女はその問い掛けに首を振る。

「ダメ、もう追い込みなのよ。明日の学会のセミナー。やっと全部資料が集まったからキャプションつけて動画の編集もしないと」
そう言いながらロッカーを開け、彼女は中から自分の青いダックスのバッグを引っ張り出した。
「明日終わったら、盛大に打ち上げやってよ」
「またまたそんな事言って、ほんとはデートとかじゃないんですか?」
ナースステーションに居合わせた若い看護師が笑いかける。

「ユ先生ってば美人なのに、浮いた話一つないんですもん」
彼女はその声に曖昧に笑う。
そして笑った拍子に痛み出した頭に眉をしかめる。

偏頭痛が酷い。ここ数日の無理が祟ったのかしらと、カバンの中から常備しているアスピリンの瓶を取り出し、蓋を開けて二粒振り出す。
口へ放り込み、ナースステーションの隅の給水機で紙コップに水を汲み、それで口の中のアスピリンを流し込んだ。
まずい、まずい。でも飲まずに酷くなって、後で便器に座り込んで吐くまでのた打ち回るような痛みに襲われるなんてカンベンよ。

彼女は心の中で呟きながら、口に残る後味をこらえる。

「ユ先生、また頭痛?」
別の医師の問い掛けに無言で頷くと、彼女は思い出したように
「そうだイ先生。ちょうど良かった。悪いけど処方箋書いてくれない?もうアスピリンがないから、新しいのが欲しいの」
殆ど空になったボトルをカラカラと振ると、同僚は首を傾げた。
「それは構わないけど、今?まだ残ってるけど」

彼女は頷きながら、同僚に言った。
「念には念をね。明日外出先で、急に必要になったら困るし」

新しいアスピリンの瓶を放り込んだダックスの青いバッグを肩に掛け、彼女は急いでクリニックを飛び出した。
思った通りの熱帯夜。
湿気の籠った熱い空気が、彼女の皮膚呼吸を止めてやるとばかりに、ドアが開いた瞬間に襲い掛かる。
数日前あのインチキ占い師に言われた言葉が、その瞬間ふと彼女の頭をよぎる。

─── 門が開かれる、遠くに旅立つ、開かれれば成される。

はあ、こんな簡単にドアが開いて、遠くに旅立てればね。今ならヴァケーションに行きたいわ。
どこでもいい。この偏頭痛の原因のストレスから逃げられて、運命の人がいるとかいうそのドアの向こう。

行けるもんなら行きたいわよね。そしたらあの占い師をインチキ扱いするのもやめてあげるのに。
そう思いながら、彼女は江南の大きな電光掲示板を見あげる。

JULY 22th 2012

明日だわ。頑張らなきゃ。
美容整形外科学会のセミナー。縫合と再生なんて大仰なタイトルだけど、つまりは若返り。美容外科の歴史。
もっと言っちゃえば、私が手術をすれば低リスクで綺麗になれますよ、って宣伝も兼ねてるんだから。

無事に終わらせて、うんと宣伝して、人脈を作って。
出来れば 気前の良い、器の大きい男を引っ掛けて、資金調達して。
3年後にはここに、江南の一等地に、個人で美容外科医院を開設よ。
それまでは貧乏な男も、お酒飲む時間も要らない。かといって、金持ちの不細工男にも我慢は出来ないけど。
絶対にやんなきゃ。結局は男尊女卑の外科の世界で、女だから、美容整形外科医だからって下に見てる奴らを見返してやんなきゃ。

明日の支度、出来てるわよね。
お気に入りの白いスーツは、クリーニングしてクロゼットに掛かってる。
靴は?あのハイヒールで大丈夫よね?バッグはこれを持ってくし。

もう帰らなきゃ。明日何が起きても、しっかり対処できるように。
今夜は仕上げをして、ゆっくり寝て、明日に備えなきゃ。
きっと明日も猛烈に暑いはず。覚悟しとかないとね。

頭の中で今夜の手順を繰り返す。

明日に向けて、今夜は早く帰ろう。

そしてタクシーを止めようと、昼の入道雲の名残がまだ残るような青暗い夜空の下で通りに向かい、彼女は大きく手を上げて振った。

 

 

【 行雲流水 | 2015 summer request・入道雲  ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

夏のお題ですが『入道雲』はどうでしょう。真っ青な空に真っ白な入道雲なんていかにも夏って感じですよね♪ 当たりますように♪ (yukaさま)

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