一服処 | 天泣・中篇

 

 

大護軍の天幕の外。風が運ぶ雨雲は夜になっても切れなかった。
木の上の俺の姿も気配も、今夜の雨が隠してくれる。
身を隠す枝の柔らかい春の葉が、冷たい雨から守ってくれる。

大護軍は座ってた。冷たい雨にびっしょり濡れて。
いつもだ。たとえ一人でも誰かを亡くした時には。
目を閉じて、逆に大きく開けて、一言も話さずに。

とても悲しいんだ。泣けないくらいに。声に出来ないくらいに。
叫んで、泣いて、何か言える時にはどん底じゃない。
思い出話が出来る時には、心は元気になり始めてる。

みんなが知ってる。将が大護軍じゃなきゃ、三十人は死んだ。
それでも大護軍は絶対に自分を許さない。
お礼の言葉も、本当の事を伝える声も、今の大護軍には聞こえない。

だから俺は。俺達は。大護軍を大好きな奴は誓う。言葉じゃなく心の中で。
昨日まで一緒にいた奴を弔いながら、もう一度誓う。
死なない。怖いからじゃなく。
大護軍を悲しませたくないから、大切な人のために、絶対生きる。

葉の影から確かめる大護軍の天幕の中、ろうそくが揺れている。
一吹きの強い風ですぐにでも消えそうな、小さな赤い火。
今の大護軍がかくしてる本心みたいなその火を見て、唇をかむ。

今の俺ができることを精一杯。
若葉がかばってくれる木の上で、もう一度雨の中に目をこらす。

大護軍に近づく敵は、誰だろうと絶対に許さない。

 

どれだけ止めても、テマンは聞き入れなかった。
「ま、万が一ってことが」
そう言って夜の雨中、天幕を出た。

万が一。敗残兵の事を言っているのは判る。
そんなものが近付ける訳がない。
野営地は外郭を太く高い柱で囲い、出入口は一つ。
重い木の扉の内側、歩哨が野営地内を守っている。

戦勝は兵を高揚させる。そして朋の死が敵意を高める。
戦勝を納め、且つ三人の朋を失った今の野営地に万一敵が踏み込んで捕まれば。
恐らく報せを受けた俺か国境隊長が駆け付ける前に、その敵は襤褸雑巾のように跡形もなくなっている。

それこそが本性だ。
美辞麗句で飾り立てようと、心中では怒り猛っている。
朋を殺めた相手が目前にいれば同じ目に遭わせたいと。
だからこそ余程の理由がなくば、敗残兵は敵陣や野営地に近寄らん。

そして戦場で命からがら永らえておきながら敵陣に再度現れるというなら、死を覚悟して突込んで来る。
そんな相手に歩哨が何人居ろうと、テマンが樹上で目を光らせようと、敵うかどうかは判らない。
これ以上の犠牲を出す必要などない。泣く者を増やしたくない。

こんな事ばかりだ。
再び剣を握ると、護りたい方を護る為にと覚悟を決めても。
生と死は余りにも近く、俺の周囲に漂っている。
生は余りにも眩しく儚く、そして死は昏く濃い。

指折り数え、首を長くして待ち望んでいた頃は当然のように受け入れた死。
率いた兵を失う予感に心は疼いても、今ほど揺れる事はなかった。

あの方と出逢う前には考えたことはなかった。
大切なものを護る為に、決して死ねぬと誓うなど。
あの方を恋い慕う前は感じたこともなかった。
生がどれ程強く眩しく、輝きを放っているかなど。

自由に死ぬ道を自ら捨てた俺は、朋にも同じ道を強いる。
絶対に死ぬな。いや、一人も死なせない。力の及ぶ限り。
そして力が及ばなかった今宵、届かぬ声で詫び続ける。

こんな夜にはあなたの輝きが一層恋しい。
余りに近い死に引き摺られそうだから、誰より輝いて生きるあなたに逢いたい。

 

*********

 

頭の先から雨に濡れて後ろからついて来ていた影は、庵に辿りつくと同時にくるりと背を向けて、来た道を戻って行った。
笠を貸す暇も、乾いた手拭を渡す隙もない。何を言うでもないし、部屋に上がり込むような下心も見せない。
本当にただ黙って帰り道を守って、また帰って行く。
呆気なさと潔さに吐いた息は、雨の中で白い煙になった。

寒いんだと改めて思う。息が白くなるくらい。

肩をすくめて庵の中に入る。火の気のない暗い部屋にひとり。
窓の外の雨だけが聞こえる。
台所のかまどに火を入れるのも面倒で、土間に立ったまま濡れた服を脱いでいく。

ひとまとめにして土間の隅の桶に入れて、濡れた髪を丸めて結わく。
手拭いで体中を拭いて乾いた服に着替えて、ロウソクを点ける元気もないまま寝台に横になる。

お風呂を。ご飯を。せめてロウソクを。それなのに何もする気が起こらない。
お風呂は明日の朝に入ればいい。1食くらい食べなくたって大丈夫。
動けないのは体か心か、それとも両方が疲れてる証拠。
雨の音を悲しい子守唄みたいに聞きながら、私は目を閉じた。

「・・・そこに、いる?」

返事は返って来ないのに、尋ねずにいられない。冷たい雨があなたの涙みたいに思えて。

思い出して。私が今あなたを想ってるみたいに。そして呼んで。私があなたを呼んでるみたいに。
誰も代わりになれないあなたを、私がいつも探してるみたいに。

どこかであなたも、今の雨を見てる?
私は見てる。そして祈ってる。あなたが1人でないように。
誰かと一緒にいるように。淋しい気持ちでないように。
すぐにもう一度逢えるように。あなたを抱き締められるように。

だから待ってて。眠ったりしないで。
今流れてるのが涙だって分かっても、雨のフリをして見逃して。

 

何故こんなにも早く気付くのだろう。

天幕を打つ雨音の中、燭台の蝋燭を消そうとして振り返る。
背を向けていた出入口。雨を避け、降ろしたままの重たい布の前。

戦勝に酔い気配を見逃すほど暢気ではない。
ましてや旧敵地からも目と鼻の先の野営地。
高い柱で囲まれ、出入口は一つ。
国境隊の精鋭兵が未だ半数残っている。歩哨が守っている。
天幕外の樹上でテマンが目を光らせている。

そうだ、己が一番良く知っている。突込むならば捨て身で来ると。
だが敵ならば、報せが届く頃には襤褸雑巾。
野営地内を無事にこの天幕まで辿り着くのは至難の業だと。

では。

繰り返し過ぎた瞬きが起こす風か、蝋燭が揺れる。
しかし天幕の出入口、その影は消えることはない。
敵ならば襤褸雑巾、しかしそれよりも有り得ぬ姿。

いらっしゃるわけがない。
入り込める筈もなく、見つければテマンが黙っている訳がない。

其処に立ったままで蝋燭を映して光る瞳が、天幕中を見渡した。
懐かしく丸く結い上げた髪の所為で、頼りなく細い首を巡らせて。
ご自身も信じられぬのか。無言でもその表情で手に取るよう判る。

声を掛けたら消えるのではないか。暁の浅い夢が醒めるのではないか。
互いにそれを懼れているのが判る。
何故なら眸は合わせているのに、互いの距離が縮まらないから。

「・・・・・・・・・イ」

動きを忘れた唇が呟いた一言で、乾ききったそれが罅割れる。

「・・・・・・・・・え」

同じように驚いたまま瞠られた鳶色の瞳が幾度も瞬きをする。

人は驚くと本当に呼吸が止まると、初めて知った。
頭の中に響く心の臓の音。熱く冷たい指先を握る。

何故判るのだろう。あなたの一歩踏み出す気配が。

次の瞬間、俺はその体を折れるほど抱き竦めた。

 

 

 

 

楽しんで頂けた時はポチっと頂けたら嬉しいです。
今日のクリック ありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村

 

 

2 件のコメント

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です