一服処 | 天つ空・亥刻(終)

 

 

チェ・ヨンの低い声が宵闇に響いた。
「寒くはないですか」
縁側の先、横に端座する小さな姿に問い掛ける。

並んで庭を眺めていた横顔が振り向き、丸い瞳が三日月を描く。
「ううん?」
呆気なく首を振られ、待ち構えた腕が淋しがる。

仕方がなく口を噤み、黒天鵞絨の空を見上げる。
月が刻む庭木の銀の影がその角度を変えるまで。

そこまで待ってようやく
「・・・・・・寒くは」
再び尋ねると、同じ調子で戻って来る声。
「ううん?」
花の香を伴って、庭の夜気を震わせる。

夜が暗いと最後に思ったのはいつだったろう。
こうして月も星もある。その光の中、白い横顔が浮かび上がる。
亜麻色の髪の一本、長い睫毛の一本までが月の光に濡れて光る。
「・・・どうしてそんなに見るの」
声は照れを含んだ響きに変わり、小さな掌がそれを隠してしまう。

チェ・ヨンの動きはいつでも其処で止まる。
隠すなとその手を握り、降ろさせることも。
見せろとねだり、その指先に口づけることも。
どちらも出来ずに、ただもう一度確かめる。
此処にいる。問えば声が返る。永遠に変わらない温かさを。

気付けば天つ空のチェ・ヨンの様子を、顔を隠していたはずの手を下ろしたウンスが見つめる番だった。
伸ばされる指が頬に触れ、額の熱を確かめ、頸と手首の脈を読む。
「どうしたの?ぼーっとして」
黒い眸を覗き込む鳶色の瞳が、不安げに色を変える。
「イムジャ」
安堵させたい一心で、チェ・ヨンは口を開いてみた。

 

上の空だったチェ・ヨンのしっかりした声に、ウンスは安心して頷いた。
「なぁに?」
「人は、倖せで命を落とす事はありますか」
「はいっ?」
急に何を言い出すのだろうとウンスは縁側のチェ・ヨンの横、反転して向き合い正面から表情を確かめる。
「幸せで・・・って、たとえば循、えーと、心の臓が悪かったり、血圧が高い人が高齢になって宝くじに当たったり、ものすごく興奮したりして不整脈とか心臓麻痺っていうのは、ごくごく稀にあるけど・・・」
「俺は」

どうやら冗談ではないらしい。ウンスは緊張に背筋を伸ばした。
夜より黒く澄んだ瞳は真摯な色でウンスだけをじっと見ている。
「心の臓が一度止まったと」
「あ、あれは別に心臓が悪いからじゃなく、敗血症だから。持病なわけじゃないわ」
「死にませんか」
「少なくとも脈診する限り、これ以上はないくらいの健康体よ。どうして?どこか体調がおかしいの?」
「いえ」

即座に否定する声に首を傾げ、ウンスはその瞳を覗き込む。
「正直に言って。本当に大丈夫?」
「無論です」
「そう・・・じゃあ、どうして突然そんなこと思うの?」

昼空の光で見るより色を濃くしたウンスの瞳に、チェ・ヨンは答を失くす。

どうして言えるのか。見ているだけで心の臓が止まりそうだと。
月が横顔の影を浮かばせるだけで、隠した瞳の色も判るのだと。
見なくても判るからねだらず、壊すのが怖くて手も握れないと。
天つ空から攫った天医は今、下界のチェ・ヨンと共に居る。
羽衣を奪われたからでなく自ら打ち捨て、戻って来た天女。

微笑むだけの天女にどうすれば良いのか判らず、動きは止まる。
攫った己が言える立場ではないが、よくも沐浴中の天女の羽衣を隠すなどの暴挙に出られたものだ。
愛しい女人が泣いているなら、己の慾など後回しで当然だろう。
ウンスが泣いて天界を懐かしめば、羽衣でも何でも渡すだろう。
そして自分は池で釣瓶を待ち、伝って天界へ逢いに行くだろう。
天馬で下界に降りずとも愛馬がいると、チェ・ヨンは少し笑う。

けれどチェ・ヨンの天女は、捨てた羽衣を欲しがることはない。
天界を想って泣く姿を見せることも、帰りたいと言う事すらも。
天つ空から降りて来て、戻る機会も擲ち自分だけを見つめている。

空はいつも見ていた。そして空をいつも見て来た。
始まりの日から今日まで。
巡る四季の陽射しの中、雨の中で、朝も昼も夜も。
時々に想い、姿を探し、擦れ違い、遠廻りをした。
それでも疑う事はなかった。

だから今この時倖せ過ぎて怖ろしい。慣れていないから判らない。
天女の想いにどのように礼節を尽くし、己の想いを伝えるべきか。
季節と共に移り変わった心の一部始終を、天だけが知っている。
「・・・あ、ああ!」

黙り込んだチェ・ヨンに、頓狂な声を上げた天女がもう一度笑う。
「寒い、気がする。うん、寒い。まだ春先だし」
「・・・もう結構」
「えー、寒い。風邪ひいちゃう」
「結構です」
言い渡しているのに天女は床を這い、チェ・ヨンの膝の中へ納まると肩越しに振り向いて笑う。
「あったかい」

膝を温石と勘違いしているのかと、チェ・ヨンは怪訝に思う。
そんなつもりで問うた訳ではないのに。
それでもウンスを膝に抱き、二人で同じ夜空を見上げる。
「きれいね」

膝の中のウンスが夢見るように呟いた。
「はい」
「2人で見ると、なおさらきれい」
「はい」
相槌を打つチェ・ヨンに向けてふと苦笑を浮かべ
「どんどん贅沢になる」

恥ずかしさに俯いて、ウンスは小声で告白した。
「気持ちが伝わる前は、気付かれなくても良いと思った。伝わった時は、一緒にいられるだけで良いと思った。
一緒にいられるようになったら、離れたくないと思った。それでも離れちゃった」
「・・・はい」
「離れてる間、何度も泣いたわ。もう一度逢いたいって、空を見て何度も祈った」

そうだったのかとチェ・ヨンは頷いた。
天だけが知っているウンスの涙。
見れば苦しかっただろう。しかし拭えなかった事にも悔いが残る。
曖昧に黙り込むチェ・ヨンの膝の上、ウンスの独り言のような告白は続く。

「夕焼けを見ると苦しかったの。また1日が終わっちゃう、今日も何も出来なかったって」

笑い話にすると思っていたはずなのに。
口に出した途端にあの頃の胸の痛みが蘇り、ウンスは眉を顰めた。
「今こうやって一緒に空を見られる。朝も夜も。それだけで充分」
「・・・はい」

戻った天女を膝に抱き、気付けば夜も深くなる。
天からの月は冴え冴えと、光の色を増していく。
庭に落ちる銀の影が伸び、形を変えるまで。
明日の朝陽の中もう一度見つめ合えるまで。

もう天だけが知る涙は流させない。
いつでも拭う指が此処で待っている。
二度と一人で泣かせることはない。
どれだけ隠そうと必ず気付いてやる。

チェ・ヨンは満足の息を吐き、密かに目許を緩ませる。

ウンスも気付かない微笑みを、夜の空だけが見ていた。

 

 

【 一服処 | 天つ空 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • (。 >艸<)フフフ?
    照れ屋さん
    言ってくれればいいのにー
    なんてね
    やっと 戻ってこれたし
    しあわせをじっくりと
    味わいたいね ♥
    以心伝心 。

  • ヨンアは素直ではない発言…ウンスも似た感じで素直ではないけど…(^^;いい意味で素直じゃない?互いに伝わりづらい表現で(^^;ウンス徐々に気が付きすりよりヨンア若干拗ねてますよね(*^^*)互いに可愛いね(*^^*)

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