「王妃」
王様の御部屋の窓際に置かれた硝子細工の鉢。
薄い硝子鉢の縁は宵の部屋に点す燭台の蝋燭の灯に、脆く美しく輝いている。
鉢に張られた水の面が、蝋燭の灯を映して煌めいている。
その水の中を泳ぐ赤更紗が、ひらりと赤い尾を躍らせる。
王様は名残惜し気に赤更紗を目で追う妾へ目許で笑まれる。
「赤更紗がお好きだな」
「・・・はい」
呟く御声に、ゆっくりと王様へ振り返ると。
「白牡丹」
「え」
「翡翠、散歩、寡人の早寝」
「・・・王様」
「王妃の好きな物だ」
そうおっしゃった王様が静かに、浮かべた笑みを深くされる。
「・・・一番好きなものが、抜けております。王様」
妾の声に困ったように口端で笑まれると、王様がその御手で横の妾の指をそっと握って下さる。
「馬上の武将絵」
「王妃」
「空を行く鳥、駝駱粥、読書」
妾の声に、何をお伝えしたいか察して下さったのだろう。
王様は大切なものに恐る恐る触れるよう、この指を握る御手を離し、次に頬へ触れて下さった。
「王様のお好きな物です」
その声に微笑んで、王様は首を振られた。
「一番好きなものが抜けておろう。王妃」
王様。妾は今でもこれ程に愚かなのです。
王様の事が愛おしく、この命と引き換えでも全く構わぬ程に。
「王様」
妾の呼び掛けにこの目を覗き込んで下さる、その眼差し。
「赤更紗が好きなのは」
そう言って、透き通る水の中、優雅に揺れる魚を眺める。
「腹がふっくらしているからです」
「・・・王妃」
「魚ですら、これ程に幸せそうで」
考えぬようにしていても、涙が浮かびそうになる。
声の途中で喉が焼けるように痛む。
泣いてはならぬ。
泣けば誰よりも愛しいこの方が御心を痛める。
そう思い力を入れて堪えた瞼の奥が熱くなる。
「ですから、必ず」
王様が誰より愛おしむ、何よりも待つ吾子を、必ずもう一度。
宵の王様の御部屋、この方の他には誰もおらぬ。
チェ尚宮も、内官たちも扉の外。
今だけはこうしてこの方を独り占めしても、許して欲しい。
埋めても埋めても埋まらなかった、今までの長い時の分まで。
頬に当てられたその御手に、己の手を添え目を閉じる。
「赤更紗が、淋しそうです」
妾の声に、頬の王様の御手が躊躇うように動く。
「増やしてやらねば」
「・・・そうだな」
目を閉じたまま耳に届く王様の、穏やかな温かい御声を聞きながら何度も頷く。
あの時己の身勝手で増やしてやらなかった事。赤更紗に心の中で詫びながら。
*****
「お呼びですか」
あの方に呼び出された私室の扉を叩く。
返らぬ声に不審に思い、その扉を静かに押し開く。
開いた扉の内。
あの方は何とも後生楽に細い両腕を枕に卓に突伏し、静かな寝息を立てていた。
人を呼び出しておいて昼寝か。
呆れた息を吐き、そのまま窓の外、眩しい夏の庭に眸を投げる。
この無防備な寝顔を眺め続けていれば、あらぬ事を考えそうで。
赤い髪も、白い頬も、長い睫毛も、半分開いた唇も。
全て手を伸ばせばすぐ触れられるほどの距離にある。
何処にも行かせたくない。
いや、返すと誓った約束がある。
誰にも触れさせたくない。
いや、天界で幸せになって頂きたい。
答えの出ない愚かな自問自答の繰り返しだ。
「・・・んー」
突然の声に弾かれたよう眸を戻す。
腕を枕にしたまま、寝顔が幸せそうに笑んでいる。
何か夢を見ているのだろうか。
その夢の中に、俺はいるのだろうか。
夢の中なら、永遠に共にいられるだろうか。
目許に落ちかかる赤く長い髪を、己の指で額へと戻す。
これだけで構わない。
これ以上は望まない。
だから今だけ。
もう一度、窓外の庭へと眸を逸らす。
逃げてばかりだ、この方に対しては。
*****
「あのね?」
昼寝から醒めたこの方が椅子から立ち、部屋の奥の段を上がる。
その奥、目塞ぎの衝立に何があるのかを、薄々気付いてはいる。
この方の寝台があるはずだ。だからその三段の低い階へは絶対に寄らない。
「あれ?チェ・ヨンさーん?」
衝立の奥からの呼び声が、部屋内に響く。
「・・・此処に居ります」
「ちょっと来て?」
「此処でお待ちします」
「えー、手伝ってよぉ」
「いえ」
階、衝立の奥。絶対に寄る訳にも踏み入るわけにもいかん。
「だって、重いんだってば」
「何がです」
「金魚鉢なんだけど」
「・・・は」
暫く奥で音を立てていたこの方は俺が手を貸さぬと悟ったのか。
其処から出て来て階の上、腰に手を当てて、大きく息を吐いた。
「私だけじゃ重くって動かせないから、手伝ってもらおうと思って呼んだのに」
「金魚を、何故」
「媽媽から1匹、分けて頂いたの。窓際に置いてあげたいけど水温が上がりすぎるといけないから、夏の間は奥に置いといた」
「・・・そうですか」
「そろそろ涼しくなって来たから窓際に戻してあげたいんだけど、金魚鉢に水が満々だし重いのよ。
下手に動かすとこぼしそうだし。じゃあトクマンさんかチャン先生に頼むからいいわ」
「・・・・・・」
突き付けられた選択肢に瞬時迷う。
不躾に寝室へ踏み込むか、他の男に見られるか。
「運びます」
そう言って立ち上がった俺の突然の翻意に
「・・・うん、ありがとう?」
不思議そうに首を捻り、この方が言った。
答は出ている。出ているのに見ぬふりをする。
俺は今、その鉢の中を泳ぐ金魚よりも愚かだ。
息を吐き、衝立の向こうへ進むこの方の後につく。
目を瞑っても歩けるならば、そうしたい。
この方の気配の漂う部屋など見たくない。花の香の漂う部屋の中など知りたくない。
知れば知るほど離すことが出来なくなる。
窓際に据えられた硝子の鉢。その中を泳ぐ赤更紗。
「これですか」
「うん、重いから気を付けてね」
俺もこうしてこの方を鉢の中に閉じ込めているのだろうか。
まるで何処にも自由に泳いで行けぬ、この赤更紗のように。
「秋になったら、皇宮の庭の池に返してあげようと思って」
「・・・それが良い」
自由にしてやれば良い。見知らぬ狭い金魚鉢よりましだろう。
「その時は、また手伝ってくれる?」
幼子のような無邪気な声で、顔で、この方が俺を見上げる。
「・・・ええ」
手伝ってやろう、自由にしてやろう、返してやろう。
この方がこうして俺にそれを望むなら。
もう一度心に決め、俺は静かに頷いた。
【 赤更紗 | 2015 summer request・金魚売 ~ Fin ~ 】

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さすがです
愛しさと切なさと心強さと
すごいです
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さらんさん、涼し気で色鮮やかな画像とともに、素敵なお話をありがとうございます。
硝子鉢の中で美しく舞泳ぐ金魚をウンスに例えるところ、本当に凄いな~とうっとりさしました。
硝子越しに見る高麗の景色も、やがては掛け替えのないものになっていくのですね、ウンスと王妃にとって。
さらんさん、新しい一週間の始まりです。
明日から、早くも9月。
お仕事もお忙しい中を、朝晩、定期的にお話を届けてくださること、本当にありがとうございます❤︎
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こんにちは
王様&王妃様 いいわぁ♪イチャイチャなんて無いけど静かに熱い愛が溢れて。素敵だわぁ。うん好き。
ヨン&ウンス のさりげない日常に熱い愛情を感じます。羨ましくて いいなぁ♪やっぱり好き。
お話楽しませていただいて思いました。コメントじゃなくて わたしのひとり言かな?
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金魚売りというどちらかというと
威勢の良いイメージの題材から
こんなにしっとりというか叙情的な風景が
浮かび上がるものだとは・・・・。
江戸時代の天秤棒をかついだ鯔背なお兄さんは
紅葉和金を売り歩いて「金魚~えぇ金魚」
高麗では優雅に泳ぐランチュウの赤更紗でしょうか?
でもウンスが絡むと少し騒がしくなりそうですね(笑)