赤更紗【後編】 | 2015 summer request・金魚売

 

 

「王妃」
王様の御部屋の窓際に置かれた硝子細工の鉢。
薄い硝子鉢の縁は宵の部屋に点す燭台の蝋燭の灯に、脆く美しく輝いている。
鉢に張られた水の面が、蝋燭の灯を映して煌めいている。

その水の中を泳ぐ赤更紗が、ひらりと赤い尾を躍らせる。

王様は名残惜し気に赤更紗を目で追う妾へ目許で笑まれる。
「赤更紗がお好きだな」
「・・・はい」
呟く御声に、ゆっくりと王様へ振り返ると。

「白牡丹」
「え」
「翡翠、散歩、寡人の早寝」
「・・・王様」
「王妃の好きな物だ」
そうおっしゃった王様が静かに、浮かべた笑みを深くされる。
「・・・一番好きなものが、抜けております。王様」

妾の声に困ったように口端で笑まれると、王様がその御手で横の妾の指をそっと握って下さる。
「馬上の武将絵」
「王妃」
「空を行く鳥、駝駱粥、読書」

妾の声に、何をお伝えしたいか察して下さったのだろう。
王様は大切なものに恐る恐る触れるよう、この指を握る御手を離し、次に頬へ触れて下さった。

「王様のお好きな物です」
その声に微笑んで、王様は首を振られた。
「一番好きなものが抜けておろう。王妃」

王様。妾は今でもこれ程に愚かなのです。
王様の事が愛おしく、この命と引き換えでも全く構わぬ程に。

「王様」
妾の呼び掛けにこの目を覗き込んで下さる、その眼差し。
「赤更紗が好きなのは」
そう言って、透き通る水の中、優雅に揺れる魚を眺める。

「腹がふっくらしているからです」
「・・・王妃」
「魚ですら、これ程に幸せそうで」

考えぬようにしていても、涙が浮かびそうになる。
声の途中で喉が焼けるように痛む。
泣いてはならぬ。
泣けば誰よりも愛しいこの方が御心を痛める。
そう思い力を入れて堪えた瞼の奥が熱くなる。

「ですから、必ず」
王様が誰より愛おしむ、何よりも待つ吾子を、必ずもう一度。

宵の王様の御部屋、この方の他には誰もおらぬ。
チェ尚宮も、内官たちも扉の外。
今だけはこうしてこの方を独り占めしても、許して欲しい。
埋めても埋めても埋まらなかった、今までの長い時の分まで。

頬に当てられたその御手に、己の手を添え目を閉じる。
「赤更紗が、淋しそうです」
妾の声に、頬の王様の御手が躊躇うように動く。
「増やしてやらねば」
「・・・そうだな」

目を閉じたまま耳に届く王様の、穏やかな温かい御声を聞きながら何度も頷く。

あの時己の身勝手で増やしてやらなかった事。赤更紗に心の中で詫びながら。

 

*****

 

「お呼びですか」
あの方に呼び出された私室の扉を叩く。
返らぬ声に不審に思い、その扉を静かに押し開く。

開いた扉の内。
あの方は何とも後生楽に細い両腕を枕に卓に突伏し、静かな寝息を立てていた。

人を呼び出しておいて昼寝か。

呆れた息を吐き、そのまま窓の外、眩しい夏の庭に眸を投げる。
この無防備な寝顔を眺め続けていれば、あらぬ事を考えそうで。
赤い髪も、白い頬も、長い睫毛も、半分開いた唇も。
全て手を伸ばせばすぐ触れられるほどの距離にある。

何処にも行かせたくない。
いや、返すと誓った約束がある。

誰にも触れさせたくない。
いや、天界で幸せになって頂きたい。

答えの出ない愚かな自問自答の繰り返しだ。

「・・・んー」
突然の声に弾かれたよう眸を戻す。
腕を枕にしたまま、寝顔が幸せそうに笑んでいる。

何か夢を見ているのだろうか。
その夢の中に、俺はいるのだろうか。
夢の中なら、永遠に共にいられるだろうか。

目許に落ちかかる赤く長い髪を、己の指で額へと戻す。

これだけで構わない。
これ以上は望まない。
だから今だけ。

もう一度、窓外の庭へと眸を逸らす。
逃げてばかりだ、この方に対しては。

 

*****

 

「あのね?」
昼寝から醒めたこの方が椅子から立ち、部屋の奥の段を上がる。
その奥、目塞ぎの衝立に何があるのかを、薄々気付いてはいる。
この方の寝台があるはずだ。だからその三段の低い階へは絶対に寄らない。

「あれ?チェ・ヨンさーん?」
衝立の奥からの呼び声が、部屋内に響く。
「・・・此処に居ります」
「ちょっと来て?」
「此処でお待ちします」
「えー、手伝ってよぉ」
「いえ」

階、衝立の奥。絶対に寄る訳にも踏み入るわけにもいかん。
「だって、重いんだってば」
「何がです」
「金魚鉢なんだけど」
「・・・は」

暫く奥で音を立てていたこの方は俺が手を貸さぬと悟ったのか。
其処から出て来て階の上、腰に手を当てて、大きく息を吐いた。
「私だけじゃ重くって動かせないから、手伝ってもらおうと思って呼んだのに」
「金魚を、何故」
「媽媽から1匹、分けて頂いたの。窓際に置いてあげたいけど水温が上がりすぎるといけないから、夏の間は奥に置いといた」
「・・・そうですか」
「そろそろ涼しくなって来たから窓際に戻してあげたいんだけど、金魚鉢に水が満々だし重いのよ。
下手に動かすとこぼしそうだし。じゃあトクマンさんかチャン先生に頼むからいいわ」
「・・・・・・」

突き付けられた選択肢に瞬時迷う。
不躾に寝室へ踏み込むか、他の男に見られるか。
「運びます」

そう言って立ち上がった俺の突然の翻意に
「・・・うん、ありがとう?」
不思議そうに首を捻り、この方が言った。

答は出ている。出ているのに見ぬふりをする。
俺は今、その鉢の中を泳ぐ金魚よりも愚かだ。

息を吐き、衝立の向こうへ進むこの方の後につく。
目を瞑っても歩けるならば、そうしたい。
この方の気配の漂う部屋など見たくない。花の香の漂う部屋の中など知りたくない。
知れば知るほど離すことが出来なくなる。

窓際に据えられた硝子の鉢。その中を泳ぐ赤更紗。
「これですか」
「うん、重いから気を付けてね」

俺もこうしてこの方を鉢の中に閉じ込めているのだろうか。
まるで何処にも自由に泳いで行けぬ、この赤更紗のように。
「秋になったら、皇宮の庭の池に返してあげようと思って」
「・・・それが良い」
自由にしてやれば良い。見知らぬ狭い金魚鉢よりましだろう。

「その時は、また手伝ってくれる?」
幼子のような無邪気な声で、顔で、この方が俺を見上げる。
「・・・ええ」

手伝ってやろう、自由にしてやろう、返してやろう。
この方がこうして俺にそれを望むなら。

もう一度心に決め、俺は静かに頷いた。

 

 

【 赤更紗 | 2015 summer request・金魚売 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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4 件のコメント

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    さらんさん、涼し気で色鮮やかな画像とともに、素敵なお話をありがとうございます。
    硝子鉢の中で美しく舞泳ぐ金魚をウンスに例えるところ、本当に凄いな~とうっとりさしました。
    硝子越しに見る高麗の景色も、やがては掛け替えのないものになっていくのですね、ウンスと王妃にとって。
    さらんさん、新しい一週間の始まりです。
    明日から、早くも9月。
    お仕事もお忙しい中を、朝晩、定期的にお話を届けてくださること、本当にありがとうございます❤︎

  • SECRET: 0
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    こんにちは
    王様&王妃様 いいわぁ♪イチャイチャなんて無いけど静かに熱い愛が溢れて。素敵だわぁ。うん好き。
    ヨン&ウンス のさりげない日常に熱い愛情を感じます。羨ましくて いいなぁ♪やっぱり好き。
    お話楽しませていただいて思いました。コメントじゃなくて わたしのひとり言かな?

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    金魚売りというどちらかというと
    威勢の良いイメージの題材から
    こんなにしっとりというか叙情的な風景が
    浮かび上がるものだとは・・・・。
    江戸時代の天秤棒をかついだ鯔背なお兄さんは
    紅葉和金を売り歩いて「金魚~えぇ金魚」
    高麗では優雅に泳ぐランチュウの赤更紗でしょうか?
    でもウンスが絡むと少し騒がしくなりそうですね(笑)

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