一服処 | 春波・終篇(壱)

 

 

春の夜気には鋭さがない。
寝屋の窓を開けるには早くとも、格子の隙間から月光と共に静かに部屋に忍び込む。

腕の中の寝息も、真冬の頃より穏やかに繰り返す。
昼の碧瀾渡、川岸に打ち寄せていた春波のように。

穏やかな寝息の温かさの中、格子向こうに眸を投げる。
怪しい影はない。月さえも転寝をするように静かな夜。

杞憂と判っている。襲うなら奴が碧瀾渡にいる間だったろう。
開京で、まして宅に引き入れた後に襲撃をかける理由がない。
この方が此処にいるから、全ての事が気に掛かる。
念には念を。最悪に備え最善の道を。この方だけは護れるように。

そしてもう一つの懸案。
明日の手裏房の酒楼での面通し。
話の流れ次第では、決断せねばならん。

船に積むほどの大きさの飛発を担いで盗むは不可能。
となれば火槍。但し相当な長さがある。
担いで盗めば目立つ事に変わりはない。
だが手裏房ですら手に入れられぬとなれば。
女火鍛冶ですら実物を目にした事がなくば。

それなら盗み出す以外に手はない。
命の危険が伴う以上、他の誰に頼む訳にもいかん。
最も容易く侵入できる国境向こう。
頭に入っている限りの元との国境地帯を思い描く。
確実に火槍を置いている箇所。何処だ。何処が最適だ。

春の夜。腕の中、この胸許に打ち寄せる春波の寝息。
何方にしても留守中の衛。ムソンとそしてこの方と。

全く我が主君は正しい事をおっしゃる。
眠る間も削って、御相手に心配をかけるようになる前に。
ムソンを連れて来ただけで、何一つ始まっておらぬのに。

静かな夜、春眠は訪れない。
覚えぬはずの暁は未だ遠い。

 

*********

 

「おーや!やっとお帰りかい、大護軍様御一行が」

翌の夕暮れを待つまでもなかった。
相変わらずの手裏房の早耳の怖さを思い知る。

この方とムソンと共に戻った宅の庭、すっかり白くなった麻の上下衣が揺れている。
その影から喧ましい声が先に届く。
干した衣を廻り込んだ母屋の庭先、縁台の端に並んで腰かける姿に向かいこの方が径を駆け出した。

「叔母様!マンボ姐さん!」
「久しぶりだねぇ、天女!」
三人寄れば姦しいと言うが、何しろ此度は四人。
うち二人は貝の如く口を閉ざしているが、残り二人の声がでかい。

口を閉ざした一人、タウンが縁台を立ち頭を下げる。
「お帰りなさいませ、大護軍」
最後の一人は開いた途端
「報せの一つもなしとはどういう事だ」
と毒を吐く。
「王命だ」
「だからと言ってな」
「もう知ったろう」
「先に委細を聞いておかねば、今後の守りの手も打てぬ!」
「叔母上」

あの方が俺のために慈しむ薬園を抱く宅。
掌中の珠を据えて護る、何より堅牢な匣。
タウンがいる。コムがいる。誰より俺がいる。
まして今は一つ屋根の下、火薬の秘法を持つ男まで。
そんな宅に易々と賊の侵入を許す訳があるか。

但し今後は確かに手を借りる必要もあるかもしれん。
己が元に潜り込み、火槍を盗み出すなら。
そんな内心の弱みが言の勢いを鈍らせる。
「・・・一先ず顔合わせだ。酒楼へ」

女人たちの勢いに圧されたか、ムソンは数歩離れた処に半笑いで佇んでいた。
その声が合図だったかのように少し離れてあなたと談笑していたマンボ、俺と睨み合っていた叔母上が一斉に奴の半笑いへ目を当てる。
開京の風儀と女人らの勢いに慣れぬムソンは、驚いた顔で己の鼻先を指した。

 

軒下の灯籠に燈を入れるには早過ぎる。
春の霞空から白い陽射しが降って来る。
亜麻色の髪を透かせて、俺の隣であなたがまた笑う。
「あー気持ちいい、ほんとに春が来たって感じ」
「迂達赤は」

この方の声に振り返る事もせず酒楼の門をくぐり、誰に尋ねるでもなく東屋に陣取った叔母上が尋ねる。
「後で来る」
その声に叔母上は表情を変えずに頷いた。
「あっちでは誰が知ってんだい」
卓上の前掛けを取り上げて腰に巻きながら、マンボが続いて問う。
「テマン、チュンソク」
「そりゃあ漏れっこないねえ」

マンボは満足げに頷くと立ったままのコムとタウン、そしてムソンに向けて空の席を示した。
「好きなとこへお座りよ。あたしは酒の支度をしてくるから」
「私もお手伝いを」
タウンが言って叔母上に一礼の後、マンボの背を追っていく。

「て、大護軍様、あの」
「酒は強いか」
「え」
「弱いのか」
「酒を呑みに来たんですか?」
「この後はな」
「何でぇ、ヨンアじゃねえか!ちっとも顔見せねぇで、何処に隠れてやがった!!」

東屋どころか離れにまで響く酒灼けの銅鑼声。
その後から相も変わらず
「ほんとに冷てぇよなぁ」
「久しぶりだね、旦那も天女も!」
師叔の声を追って来るチホとシウルの弾む声。
最後に無言で春空の許を来る墨染衣に、俺は眸だけで頷いた。

「て、大護軍様。あの人たちは」
「後でゆっくり教えてやる」
「・・・はあ」
ムソンは呆気に取られたように頷くと、近付いて来る師叔らに頭を下げる。
そして何が可笑しいか、面々を見渡した後に白い歯を見せた。
「大護軍様、俺」

その声に眸で問うと
「すごい久々だったんですよ、昨夜。いや今夜もですけど」
奴はそう言いながら俺とこの方とを比べ見た。
「誰かと飯を喰うとか、寝ろって怒られるとか」
「怒ったの?」

俺が何かを言う前に、驚いたような声が上がる。
それに却って焦ったムソンは両手で宙を扇いだ。
「ち、違います奥方様、怒ったって、別にそういうんじゃなくて」
「それならいいけど・・・ねえ、ムソンさん」

酒楼の屋根向こうから東屋へ射し込む西空の陽に目を細め、あなたが眩しそうにムソンを見た。
「この人が怒るとか、一緒にご飯を食べるとか、お酒飲むとか。これからきっと増えるわ。大丈夫?」
「もちろんですよ!」

ムソンは嬉しそうに頷き返し、この方ではなく俺を見た。
「何だか懐かしかったんです。誰かと一緒に喰う飯が。それもずっと憧れてた大護軍様とだなんて」
「そうか」
「でも錠は・・・夜中に厠に行きたくなったらどうしようかと」

呆れて何かを返す前に、この方が噴出して頷いた。
「そうね、健康にも良くないし」
「軍器寺に移るまで辛抱しろ」
「出物腫物って言うじゃないですか、無理ですよ」

情けない声に笑いながら、この方は俺の肘を突いた。
「そうよヨンア、無理言っちゃ可哀想だわ」
思わぬ援軍を得て期待に目を見開くムソンに向き直ると
「せめて尿瓶くらいは置いてあげなきゃ、つらいわよね?」
その一言に目だけでなく、次はムソンの口が驚いたように開かれた。
「この人がムソンさんを迎えに行った。これからは何があっても命がけで守るはずよ。だから私はムソンさんの健康を守ります。病気も、怪我も」

機嫌が良過ぎる。
この方が浮かべる笑顔にようやく思い当たる。
笑顔が多過ぎる。昨日の碧瀾渡でも、今日の外出でも。
確かに出歩き好き、客好き、人好きな方ではある。
それでも役目に専心した冬、初雪の散歩すら儘ならなかった。
それを責められる方がまだ判る。埋め合わせの為に二人で出掛けようと駄々を捏ねるなら判る。だが。

穿って見てみれば、笑顔さえ贋物に見えて来る。
それでも少なくとも、まだこの方は笑っている。
「奥方様、俺は」
ムソンは宣言に驚いたように口籠る。
様子を伺う俺の目前で、あなたは堂々と言い放った。

「でもごめんなさい、それは純粋にムソンさんの為ってわけじゃないの」

 

 

 

 

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2 件のコメント

  • 何処に居ても気が休まらないヨン。
    大変ですね~?
    誰かと食べるご飯が美味しいムソンの
    気持ち。よ~く分かりますよ(笑)

  • 更新ありがとうございますm(__)mウンスの機嫌の良さの裏がありましたね(^^;てかこの雰囲気で晩酌等ムソンくんじゃなくても…(´д`|||)久々に誰かと一緒に食べるのはどうしたらいいか気もそぞろ(^^;分かるよ~(^^;このあとは…(´・ω・`)ありがとうございました

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