窓の外のテマンとトギ。
二人の姿を確かめた後、目の前に横たわるこの方に目を戻す。
「名を、呼んでほしかったのですか」
首を傾け俺が静かに尋ねると、この方は頷いて顔を紅くし
「だって。あなたに面と向かって呼ばれたのは、府院君のとこから連れ帰ってもらって王様の前で偽の尋問された時と、迂達赤で突然護衛に指名された時だけだもの。
たまには呼ばれたいなって思うことあるわよ。それが女ってものよ」
そこまで言って、あ、と何かに気付いた顔をする。
「でも、イムジャって呼んでくれるのも好き。
誰にもそんな風に呼ばれたことないから、すごく特別な気がするの」
「あなたを攫った俺が、天の名を呼んでも良いのですか。
思い出して、悲しい気持ちになりませんか」
俺の言葉に目を見開いたこの方が、首を振って俺の手を握る。
「あの時逢いに来てくれて、連れて来てくれて、ありがとう」
そう思ってくれるのか。
そんな風に言ってくれるのか。
聞かぬまま、気づかぬままで、勝手に思い込んでいた俺に。
「では、俺の事を、時にはヨンと呼んでくれますか」
俺が訊ねると、その顔色がますます紅くなる。
ふるふると首を振って、この方はそれを拒む。
「何故あなたが恥ずかしがるのですか。
俺が呼んでほしいのですから呼んで下さい。さあ、どうぞ」
そう催促すれば
「どうぞって言われて呼ぶものじゃないでしょ!」
と、終いには膨れている。
「イムジャ」
俺がそう言って寝台に肘をつき、そこに顎を載せ、顔を覗き込んで声を掛ければ
「・・・」
横目で俺の顔を見た後、この方はもぞもぞと布団に隠れるようにもぐりこむ。
「・・・・・・ヨンア・・・・・・」
小さく小さく、布団越しに、聞こえぬほどの声がする。
「イムジャ、聞こえません」
布団越しにもう一度声を掛ける。
「・・・ヨンア」
この方より前に、俺をそう呼ぶ人はいた。
今とて、ヒドや師叔たちや叔母上は俺をそう呼ぶ。
ただこの方が呼ぶ時は、その声の響きが天より降る音のよう、殊更に特別に感じる。
その名で良かったと嬉しく思う。
「ウンスヤ」
布団から覗く髪に触れ声を掛けると
「・・・何」
布団超しにくぐもった声が返って来る。
俺は息を吐いて呟いた。
「あの頃、あなたに言いました。剣が迷うていると。
迷うていたのは、剣だけではない」
触れていた髪の動きが、ぴたりと止まった。
隠れていたこの方が腕で布団を払いのけ、この眸を確りと見詰める。
「俺の手は、敵の血だけで濡れていたのではない」
俺はその瞳を見つめ返した。
見ていてくれ、そうして。
だからこそ俺は口に出せる。
「俺の迷いのせいで、何人も部下が死んだ。
俺の手は、奴らの血でも濡れている。
たとえ己が斬ったのでなくても」
そうだ、たとえ一人で背負うなと言われても。
「チュソクは最期まで、俺を待っていたはず。
しかし俺は、その期待を裏切った」
そうだ。俺がこの方を追ったために。
「トルベは迷う俺の右手になり、死んだ。
奇轍の手にかかり、俺の代わりに」
そうだ。それが俺の犯した罪だ。
「もう二度とそんな事はしたくないのです。これからも、必要ならば敵を斬る。
命を救う事をいつも考えているあなたに、誰も剣を持たぬ平和な天界から来たあなたに、それが耐えられますか」
「必要、なのね」
この方の問いに、俺は迷いなく答える。
「必要です。高麗を守る為に。あなたを護る為に。
だから、そう決めた俺と、一緒にいてほしい」
この方の瞳が揺れて、伸ばした手が俺の頬に当てられた。
そしてその顔が、ゆっくりと大きく頷いた。
乗り越えねばならん。
惑うたままではこれより進めん。
そうだ、これが俺の本音だ。
これからは失いたくないのだ。
あの時、泣くことすら許されなかったような俺に、戻りたくないのだ。
もっと判りたい。この方が俺に願う事を。
判って欲しい。俺の思っている事を。
護りたいと無言で己を押し付けるだけでなく、この方が真に願うことを知らなければ。
俺の心を伝えなければ、俺達は駄目になる。
甘えたくないと自分の頬を自分で打つ、強がりなこの方だから。
「何でも言って下さい。
どんなに小さなことでも良い。俺に、教えて下さい。
ぱあとなあ、とは、そうしたものなのでしょう」
遠くならないでくれ。
俺達の間に、壁を作らないでくれ。
護りたい。強烈にそう願うのは変わらぬ、俺の慾だ。
あなたに何も問わず、聞かせず、負担に思わせず。
それでもこれからは、ほんの少しはあなたに問うだろう。
何をしたいですか。俺に、どうして欲しいですか。
そして俺も言うだろう。
今俺は辛いのです。今俺は迷っているのです。
今俺はこうしたいのです、どう思いますかと問うだろう。
あなたの返答が、俺とは違う事もあるだろう。
ならば俺達二人で探せばいい。一番良い道を。
「キム侍医があなたの事をウンス殿と呼ぶのを聞いて、腹を立てました」
「分かってる」
「呼んで欲しいなら、まず俺に尋ねるのが筋かと」
「分かってるけど、恥ずかしかった」
「他の男に言うのは、恥ずかしくないのにですか」
「だって」
この方が、少し涙声になる。
「毎晩一緒に寝てるのに、何にもしない。
もう何か月たった?今はお布団だって別々だし。
私の事好きでも、魅力は感じてないのかもしれない。
なのにこれ以上わがまま言って、こじらせたくない。
ただ名前を呼んでほしいくらいで、喧嘩になるのは嫌。そんな風に考えたのよ」
・・・待て。
そう怒鳴りたい気持ちを堪えて 息を吐く。
まただ。俺は何も判っていなかった。
そしてこの方も。
「イムジャ」
「何」
「あなたも叔母上も何かにつけ女心とおっしゃるが、俺の心は全くご存知でない」
「あなたの、心」
その不思議そうなこの方の瞳に眸を合わせ、俺は伝える。
「大切だから、傷つけてはならぬと。
男として、けじめをつけるまではと。
俺のせいで、眠りを妨げたくないと。
そう考える気持ちは、通じていないという事ですね」
あなたは曖昧に首を傾げて呟いた。
「・・・知らなかった・・・」
自分を大切にせぬ者が、相手をどう護る。
叔母上に言われた言葉が蘇る。
これからも、俺は絶対にあなたには勝てぬ。
あなたを己より大切に想う心は変えられぬ。
あなたが呼べば、何処からでも駆けつける。
たとえ何を捨てても、あなただけは喪えぬ。
俺の掌に慣れた小鳥。
肩に舞い止まった蝶。
髪に優しく挿された野菊。
愛しさの余り歯噛みしながら、力加減が判らずに、時に握り潰しそうになる前に。
俺は聞くだろう。あなたに、そして己自身に。
「覚えておいてください。
俺は物分りが良くない。心も狭い。気も長い方ではない。
これからも間違いを犯すかもしれぬ。
戦に出て人の命を奪い、傷つき、あなたを苦しめるかもしれぬ。
それでも、一番大切なのはあなただ。
だから、離れずに、一緒にいてほしい」
イムジャ、あなたを護りたい。
俺にしか出来ぬと信じたい。
一生離さず、此処におきたい。
余所見をするなと無理にその顔を掴み、こちらを向かせても赦してくれますか。
あなたが笑って頷いてくれれば、遠慮などせぬ。
もしも壊せばその傷も、俺が癒して差し上げる。
だからあなたを護ることの意味を一生、俺に教え続けてほしい。
その瞳で。その声で。
「薬をもらって、早く帰りましょう。その後三日はおとなしく。
お元気になれば、お分かり頂けなかった俺の心を、しっかりとお伝えします」
そう言うとこの方はもう一度深く布団にもぐりこみ、少しして、小さな頭が一度だけ頷いた。
【 都忘れ ~ Fin ~ 】

読んで頂き、ありがとうございました。
【都忘れ】終了です。
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なんて甘い告白なんでしょうか。あの顔で間近でこんな風に言われたらと想像するだけでクラクラするくらい甘い二人。悩みに悩んだからこその素直に気持ちを伝えあう姿がものすごくステキでした。