或日、迂達赤 | 걸음이 느려서(歩みが遅くて)

 

 

【 걸음이 느려서 】

 

 

此処におります。

空を仰いだチェ・ヨンが、唇だけで呟いてみる。
聞こえているだろうか。 こんな声では届かぬだろうか。
あの方の声は、いつも聞こえているというのに。

そこに、いる?

涙声で囁かれたあの声は鮮やかな輪郭を持ち、心の中で立ち上がり、この耳にはっきり響いているのに。

「大護軍、そろそろ」

遠慮がちに離れたところからかけられた小さな声。
チェ・ヨンは凭れて座る木の枝の揺れる音に紛れて聞こえないふりをしながら、丘の向うの空を眺めた。

春の初めの、霞むような薄青い空。
刷毛で書いたように浮かぶ淡い雲に、面影を追うよう目を投げ上げる。

「大護軍」
丘の上、もう一度声を掛け一歩踏み出したトクマンの胸の前、チュンソクが腕でその歩を制す。
「あと、もう少しだけ待とう」
「・・・はい」
槍を構えたトクマンは頷いて、チュンソクと二人、足音を忍ばせそこからそっと離れた。
チェ・ヨンの耳がどんな僅かな音でも、聞き逃すことが無いように。

いつになれば戻ってくるのだろう。
どれだけ此処で座り続ければ、もう一度あの声を聞けるだろう。

チェ・ヨンは立てた膝の上に、預けるようにその額をつけた。

 

「大護軍、そろそろ」

先刻まで青かったのが嘘のような、垂れこめた雲に幾重にも覆われた、真黒な夏の空。

外套を用意する間もなく、その重の合間から降り始めた大粒の白雨にびっしょりと濡れながら、テマンは声を掛けた。
いつもは四方八方に立つテマンの髪も今は濡れ、顔に張りついている。

強い雨が力任せに、地面を、木々を、下草を叩きつける。
地面のあちこちには小さな川が出来、枝も草も項垂れる。

騒々しい雨音を縫ってようやく届く声。声の主は、テマンだ。
分かっていても、チェ・ヨンの体は動かない。

立ち上がりここを後にした次の瞬間、後ろから小さな姿が駆けてくるような気がする。
去っていくこの背を激しい雨で見失い、泥の中に座り込みもしも泣かせてしまったら。

チェ・ヨンは、固く眸を瞑る。

そんな事になるくらいならば、石になり此処に転がって何も考えず気に掛けず、動かずに待っていたい。

木は大きく青い葉をいっぱいに広げ、幹に凭れるチェ・ヨンを烈しく落ちる雨粒からようやく庇っていた。

 

「もう来るな」
天門近くの飯屋で、チェ・ヨンは卓の向かいのチュンソクに告げた。

「大護軍、しかし」

確かに今のチェ・ヨンの周囲、高麗内に敵がいるとは思えない。
そう考えながらも、チュンソクは素直に頷けずにいた。

高麗の中に敵はおらずとも、ここは元との国境。
征東行省から命からがら逃げ、国を追われた徳興君が居る。
兄を亡くした奇皇后も、肚の中で大護軍をどう思っているのか。
そんな事を慮るチュンソクの中の不安は尽きない。

どんな敵を送り込み、どんな奇襲をかけてくるか分からん。
あの丘に行く度、魂を失ったように三日も四日も無為に座り込むチェ・ヨンの様子を見ている。
剣も雷功も天下無双の大護軍とて、あの無防備なところで背中から襲われればどうなることか。
チュンソクの胸の中に、悪寒が過る。

その胸裡を読むように、チェ・ヨンの黒い眸が、卓向かいのチュンソクをじっと見詰めた。
「心配無用」
開いた飯屋の扉の外、風に吹かれ飛ぶ落葉のように、その声はがさがさと茶色く乾いてひび割れている。

「大護軍」
「一人で待つ」
「しかしそれでは危険です。せめて俺か、テマンが付くのを許してもらえませんか」

まだ早い時間だというのに、秋空の陽は傾き始めている。
飯屋の窓から差し込む光は、斜めの縞を床に刻んでいる。
黄朽葉色の秋風は冷たさを増し、飯屋の扉から忍び込む。
鍋釜から上がる白い湯気が、その冷風に流れ消えて行く。

「放って置け」
チュンソクから目を逸らして言い放つと、がたりと音を立てチェ・ヨンは椅子を立つ。
そして後ろを振り向く事もなく大股で卓の間を抜け、 鎧姿の大きな背中は飯屋の扉から表に出て見えなくなった。

 

「来るなと言ったろ」

チェ・ヨンの怒りの籠った声に、雪の中の足音が止まる。

すっかり葉を落とした木は、折れそうな枝を空へ伸ばす。
その枝は墨画のように、雪空に黒い線を描いている。
頭にも肩にも雪を乗せ、チェ・ヨンは身じろぎもしない。
ただその口元から、白く雲のような息を吐いている。

「で、でも飯を食わないと」
「いらん」
「この雪じゃ体を壊します」
「テマナ」

低い声に、叱られた犬のよう、テマンがぴたりと黙り込む。
その手に差し入れに持参した飯の包みを握り締めたまま、振り向きもしないチェ・ヨンの背を見つめ、次の声を待つ。

このままじゃ、倒れてしまう。
飯も食わず、恐らく碌に眠りもせず、雪の中ただ待っている。
様子見に日参する兵たちは、すぐに肩を落として戻ってくる。
どうだった。周囲から心配そうに飛ぶ声に、どの兵も首を振りながら、
「追い返された」
そう言うだけだった。

少なくとも俺は、大護軍に信用されてるって思ってたのに。
テマンは心の中で呟いた。

「また、来ます。飯だけ置いて行きます」
それだけ言って、足元のきれいな雪の上に包みを置き直す。
向き直らぬチェ・ヨンの背に深く頭を下げると、テマンは 振り返り振り返り、一人で雪の丘を降りて行った。

 

幾度も途中で止まりながら、雪の中の足音が遠ざかる。
チェ・ヨンはその足音を聞くともなく聞いていた。
テマンの置いて行った飯を食う気にはなれない。
しかしそこに置いておいて真冬の雪深い山中、腹を空かせた獣を呼び寄せれば面倒だ。
冬籠り損ねた熊か、獲物に見放された狼の群れでも来れば、此方も命の保証はない。

チェ・ヨンはようやく雪の中から、重い腰を上げた。
己の腰掛けていた木の根元の周囲を気付かぬうちにふんわりと、真新しい白雪が覆っていた。

その瞬間白い世界の端に、ちらりと赤いものが動いた。
チェ・ヨンは飢えた虎の勢いで、赤い残像へ眸を向けた。

白い雪の中、紅い交喙が飛び去るのが見えた。

息を止めて見つめていたチェ・ヨンは飛び去る鳥を見て、溜めていた息を太く吐いた。
そして握り締めていた拳を、凭れていた木の幹へと力任せに叩き込んだ。

細い枝に危うくしがみついていた幾本もの細い氷柱が、揺れた勢いで儚い音を立て、地に落ちて砕けた。
木の根本の周囲を覆っていた白く柔らかな雪の上、チェ・ヨンの拳から流れ落ちた血が赤い染みをつけた。

花が咲き、蝉が鳴き、葉が落ちて、雪が舞う。
流れる季節の中で、己の時間だけ止まっている。

命を受け、馬で駆け、戦場に立ち、敵を斬る。
流れる日々の中で、心の行き場を見失いかける。

明るい笑顔、赤い髪、白い頬だけが蘇る。
指を伸ばせば触れられそうなほど、近く感じる。

あの方は必ず、此処へ帰って来る。
己が運命に従い、あの天門をくぐったように。
必ず此処で、もう一度逢える。
その想いだけが、己を繋ぎとめる。

雨が降るたびに思い出す。

─── 雨が降りだす瞬間。空を見て、あれ?って。

その雨のようにあなたはいつの間にか、この胸に果てしなく沁みこんでいる。

あなたを待つ木の根元、座り込み悪戯に砂を握る。
指の隙間からこぼして行く砂が、小さな山を作る。

この砂のようにあなたはいつの間にか、この胸を大きな想いで満たしている。

丘へ登るたびチェ・ヨンは凭れた木の温かさを感じるように、眸を閉じゆったりと其処へ寄りかかった。

花が咲き、蝉が鳴き、葉が落ちて、雪が舞う。

命を受け、馬で駆け、戦場に立ち、敵を斬る。

残りの刻の許す限り、チェ・ヨンは丘へ足を向ける。

心に溢れる想いだけを抱き、時間が過ぎていく。
空を仰ぎ、雲の流れを見つめ、枝葉を、下草を揺らし頬を撫でて行く風を感じる。
何かを感じて後ろを振り向き、その度に肩を落とし、また空を仰ぎ、そして呟く。

此処に、おります。

遥か遠回りをし、辿り着いた答。微笑んでも、涙が滲むこの想い。
あなたを待ち、打ち続ける鼓動。深夜に見る夢にだけ姿が見える。

呼んでいる、あの声で。その声にチェ・ヨンは答える。

此処に、おります。

だから早く帰って来てほしい。もう待てぬ。 恋しすぎて、もう待てぬ。
一人にするのも一人でいるのももう出来ぬ。 心が痛くて、もう出来ぬ。

イムジャ、俺は何時までも此処におります。 あなたが帰るその日まで。

 

 

【 걸음이 느려서 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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1 個のコメント

  • こんにちは^ – ^
    何も手につかず、ひたすらよみふけっています。
    チェヨンの心が苦しくて締め付けられます。
    ウンス、早く戻って。
    帰ってきて欲しい。

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