六花 | 3

 

 

あの方の涙が、隊長をこの世に呼び戻した。

中医医人、下医医病
天の医員にそうお伝えしたことがある。
私は、人の心を治せる医者だろうか。
常に自分に、そう問うてきた。

友とは呼びあわずとも、互いに尊敬の念を抱き、信頼に足る人間であることを言外に認識していた。
そんな隊長の心の闇を癒す事こそ、天命のようにも思った。

何処かに似た部分があるのかもしれない。
権勢を厭い、束縛を嫌い、気の向くままただ自由に生きていきたい。
私は医で。隊長は剣で。
信じた道一本をひたすらに極めたい。そんな部分が。

しかし隊長の築いた高く厚い心の壁の前では、私の医者としての腕など、何の役にも立たなかった。
その暗い壁の向こうに何があるのか、私では想像もつかなかった。

隊長の心の像が止まった時、ああ、隊長はもう戻りたくないのだと、初めて私は悟った。
もう肉体だけ、壁のこちらに置いておきたくないのだと。
この七年の間、常にそうしたかったように。
約束を違えた方の手にかかって死ぬことで武士としての自身の名分を保ち、いよいよこの世を捨てるその覚悟ができたのだと。

その壁を天界の医員はまるで大槌を振るうかの如く、無遠慮に、粉々に、砕いてしまわれた。

隠れて出て来ないなら引き摺り出すまでの事。そんな所にいては駄目だと。
あの涙で、あの息で、その壁を打ち砕いた。

そうだ。本当に心を癒す力を持ったのは、この方だった。
幼子のよう真直ぐで嘘のつけない、あまりに奔放で型破りで我儘なこの方こそが、私の成りたかった医者だった。
私の医術など、この方の心に比べれば、ただ小手先の技だったのだ。

そして直後、隊長の傷さえ満足に癒えぬまま王様の御前に引っ張り出され、徳成府院君を指さして啖呵を切った後。
宣任殿の回廊の陰で震えていた、この方を見た時。

この方の真の姿の一端を、垣間見た気がした。確かに驚くほど無鉄砲だが、無神経ではない。
懸命に心に鎧を着せ掛け、ご自身を奮い立たせているのだ。

強くあらねばならない、弱い自分を見せてはならないと、あの大きな笑顔、華やかな声の裏側で戦っている。

私に倒れこんできたそのお体を支え、初めてこの方に少し近づけた気がした。

だからこそ、これほど目が離せないのだろう。きっと、それだけに違いない。

 

******

 

天界の医官であり今や高麗の医仙となられた方に徳成府院君の屋敷への移動の王命が下りたのは、その御前会議の直後だった。
隊長はまだ動くことも叶わず、伏したままだというのに。

青天の霹靂だ。
若い新王の地盤固めの為、医仙を手放すことはないとそう踏んでいたが。
私の読みが甘かったか。

典医寺に踏み込んできた府院君の私兵とその腹心たちが、医仙を半ば攫うように連れ去った。
いかに自身の管轄である典医寺で乱暴狼藉を働かれても、王命とあれば我らも迂達赤も制止はできない。

腸が煮えくり返るのを堪え、後ろに隊長を守り、医仙が遠ざかる姿を見送るしかない。

ようやく意識が回復し、その一部始終を知った隊長が未だ半死の状態で皇宮を飛び出し、救出に向かう。

隊長は大丈夫なのだろうか。
典医寺を飛び出す隊長にようやく手渡せたのは、僅かな補身の丸薬だけだった。

医仙も隊長も、無理をする方々。
あの跳ね返りの医仙の気性で、正面突破の隊長の気性で。
上手くいけばいいが、徳成府院君の老獪さに敵うだろうか。

事態は思わしく転ばない。
隊長が飛び出した後、王は周囲の騒音に惑わされて隊長への気持ちを変えたか。
結局隊長は任を解かれて逆賊扱いとなり、迂達赤は徳成府院君の監禁下に置かれた。

新王とて結局、隊長を心から信頼していらっしゃらないのだ。
徳成府院君やチョ・イルシンに囁かれただけで揺らぐようならば、それを信頼とは呼ばぬ。
裏切られたと思ったのだろう。恐らく隊長が、徳成府院君側についたと思ったのだ。

口が裂けても言わぬ。
言わぬが、この王も人を見る目がないという事か。
高麗の武士の約束の重さを、理解できぬという事か。

己の欲で医仙を天から攫わせ、この地に留め置いた者たちがその欲のまま好き放題に扱った非礼を詫びぬのか。
唯一人力を尽くして医仙を守ろうとする隊長を、自分に背を向けたと詰るのか。

隊長を嵌めるために仕組まれたのは、廃位された慶昌君媽媽の王位復権への計画に加担したという猿芝居だった。
隊長は反逆罪で捕らえられ、医仙は府院君の屋敷に軟禁された。

迂達赤が監禁下に置かれ身動きが取れない状態で、迂達赤副隊長が内密に隊長に送った兵が皇宮に戻り禁軍の追手を交わし、私の処に辿り着いたのはその頃の事だった。

チュソクと名乗ったその迂達赤は、私の目を見て言った。
「隊長は現在、慶昌君媽媽と医仙と共にいます。
王様への伝言を頼まれていますが、禁軍に囲まれた王様には、容易に謁見も叶わず。
一刻も無駄にできない。どうにかチャン侍医の力をお貸しいただけないか」

真直ぐにそう切り込まれ、私は無言で頷く。
急がねばならない。掌に汗が滲む。
今となっては、そこに徳成府院君の私兵までいる。
そう告げると、チュソクという兵は黙って頷いた。

私は王様に持っていく薬を適当に見繕う。
薬員と共に、白衣を着せたチュソクにその薬湯を持たせて、康安殿に向かった。
突然の我々の訪問を怪しむ兵に王様の診察時間だと騙り、チュソクと王様の面会を膳立てた。

事もあろうに任を解いた逆賊の隊長と内密に通じていた兵が現れたことに、あからさまな憤怒の表情を浮かべる若き新王。

隊長は今、自らの名と命を懸けて、戦いを挑んでいる。
そしてチュソクというこの迂達赤はその意味を解し、隊長の願いを、命を懸けて叶えんとしている。
それが分からぬなら、私とてこの新王を見限る時だ。

隊長の伝言を伝えた後チュソクが王様の目の前で自刃せんと刀を首に当てた時、寸でのところで私は扇を振るい、その刃を床に落とした。

さあ、王様。どう出ますか。

私たちの目を受けて、王様は事態の様子見を申し出た。
まだやることが残っているとだけおっしゃって。

慶昌君媽媽の服毒に纏わる一件は聞き及んでいた。
今は獄に繋がれた隊長が目の前で以前の主君を喪い、どれほど心に新たな傷を負ったかは想像に難くない。
まして隊長が己の手で、そのお命を絶ったというその話が本当ならば。

いつもそうだ。
政は実直なる者、優しい者をまず食い物にする。
反吐がでる。

その怒りが、隊長の後押しへとつながる。
王様が自ら獄へ足を運んだ後、隊長が獄を抜けたと知り私は事がうまく運ぶようにと、康安殿の周囲の目障りな兵たちを薬で眠らせる。

私の知識は本来このようには使わぬが、あれは少々痛快だった。
これで医仙が戻っていらっしゃれば、そして隊長の心が少しでも安らげばとの一念で、隊長と王様との面会の成功を祈った。

事態は一晩で急転直下した。
王様と隊長の面会時、何の話が交わされたかは知らぬ。
隊長の事だ。嘘などつける筈がない。
いつものあの正面突破で、新王の心も切り崩したか。

王との面会後、王命により迂達赤に戻った隊長はしかし、魂をどこかに置き忘れた様子であった。

隊長の壁を壊したご本人は、未だに本当の壁の向こう、徳成府院君の邸に閉じ込められている。
静かに府院君に従っていられるとは到底思えない。

あの方が無事に戻られるのが日ごとに難しくなりそうで、私の心も波立てずにいるには難しかった。

 

 

 

 

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